syuun の不思議な少年時代

Syuun の不思議な少年時代 その34 Episode 3

中学に入学したのが1964年という忘れようとも忘れられない年。
映画「ALWAYS三丁目の夕日'64」の舞台になってしまった年として、今では再確認されているのかも知れない。
中学1年の時は、11クラス52人学級だった。
これだけ人数が多いと1年のうちに話もしない級友も数多い。当然名前も覚えていなかったクラスメイトもいて現在でも名前と顔が浮かぶのは十指に満たない。
なぜなのかと言えば、中学に進学してくる小学校は桃井小から約100名。中央小の全部約250名、城南小の過半数約200名と言う具合に桃井出身者のSyuunが見知っている学生が圧倒的に少ない。
しかも街の中心部を網羅する中央小からの進学者が一番成績優秀と来ているから尚更である。
その内の女子学生はと言うと中央小学校からの1人しか記憶にない。
なぜ名前と顔を記憶に留めたのかというと、その女学生MKはその1年生の時に何度かクラスで1番の成績を取ったという噂だったからである。
しかも記憶は高校の時に前橋女子校(2年5組)とのクラス交換の時に同じグループになったという経緯で補強された。
そして、何十年かして名だたる事業家だった彼女の実家の仕事をさせてもらったということぐらい。
それもどういうわけか父がその家をよく知っていて、仕事をもらったという妙な縁でもあった。
その女子学生MKは当時はひょろひょろとして、首が長く細面の背が高い女性だった。
話をしたこともないし、同じ女子学生ともあまり親しげにしていないMKの話し声さえ聞いたことはない。またその背が高いと言っても当時Syuunは身長160�p程度。
成長が早い女性は、中学の時点で成長が止まっていることが多い。
それで中学に在籍しているうちに身長では楽々追い越すのだが1年の時は彼女の方が背が高かった。
容姿かたちと言っても、中学1年生のレベルでは女性を感じさせるものは無く、将来的には美形の女性になるのではないかという片鱗を見たくらいであった。
そして2年になってクラス編成替えと共に、忽然と消えてしまって以後見かけたことはなかった。
しかし、17歳の女子高生になったMKは、ひょろひょろとしてアンバランスな姿態は姿を消して美形の女子高生になってはいたが、それまで。
結果、単にすれ違ったというくらいの印象であった。

この中学生になる直前の春休み母の実家へ遊びに行って、女性としては将来的に係わり合いを持つ年代というのはこの頃かと気が付いたことがあった。
ただし、その年代とはその時まだ小学校にも上がっていない。

この頃の女性との係わり合い、袖振り合うも多生の縁というものはより少ない人数が集う英語塾というところでしかなかった。

Syuun の不思議な少年時代 その33

【昭和39年、1964年春 その3】


中学生生活が始まる。学校には生徒があふれかえって雑然としている。
1年生は1階、2年生は2階、3年生は3階と言うことになっていて、鉄筋校舎とはいうものの1年10組は北側の西隅(3クラス)だった。
1組から8組までは少し離れた木造二階建ての西校舎で日当たりは良かったが、非常にレトロの雰囲気が強かった。
実はその木造校舎が使われたのは、この年が最後である。

ベビーブーマーの世代直下というのは、何やら重苦しい雰囲気に包まれた世代であった。
考えてみれば今でも「ぞっとする」不安な毎日なのである。
それは中学に入った途端に高校進学という文字が片時も頭から離れたことがない。
その重圧を常に感じる毎日というのは今では想像もつかない。
今の親は、中学生の子どもに勉強を教えるということは程度の差こそあれさほど難しくは無い。しかし、当時の親は大正生まれの親である。
父親や母親は戦前の教育を受けた人たちで、小学校低学年なら兎も角中学の勉強を教えられるはずもない時代でもあった。
しかも当時は勉強のための参考書というのは少なく、その上に今のように進学塾が氾濫してもいない。
だから高校教師がアルバイトで塾をやっていることが多かった。

そんなスタートの中学生生活の4月は、平穏無事と言うより嵐の前の静けさというのが正しかった。
東京オリンピックと言うのもまだ視野に入っていない。
そういえば秋には東京オリンビックがあるという程度のものである。

この頃、4人家族の我が家は4人家族として成りたって以来最高に充実した時であった。充実したと言うよりもう一つの未来が開けたということである。
その一つは兄が北海道大学に進学したこと。もう一つは父が病気から立ち直ったことであった。
この二年前には父は、胃の痛みが激しく吐血もしていたのだが胃潰瘍らしいことが分かり手術した。今なら胃潰瘍などは早期に発見されて大した事にはならないことが多い。しかし、その昔は今では毎年の検診で胃カメラを飲むと言うことも普通に行われた分けではない。
実を言えば小生だけが何やら蚊帳の外にいた。

新中学生となった身では前述のように何とかして普通高校に紛れ込めないかと思案していたのが真実である。

新中学生の最初のスタートダッシュ。
今の子ども達も全く同じで、この時期から如何にスタートダッシュを切れるかで中学3年間の大半が決まる。
転換期があるとすれば、二年になるときの組替えのチャンスの1回しかないというのも何となく分かっていた。しかし、何をして良いのかが分からないというのが本当である。

中学を卒業して高校の教科書を買ったとき、多少予習でもするかと思って英語の教科書を見て驚いた。
教科書の最初の一行からして全く刃が立たない。
夏休みにはヘミングウェイのFor Whom the Bell Tolls原書(誰がために鐘は鳴る)が課題だったり、トルストイの「人は何で生きるか」What Men Live Byの英語版だったりする。
小説は何とかなるが、英語の教科書は大学に入ってから読んだ専門書の何倍も難しいというのは今で思えば無意味な教科書だった気がする。

小学生から中学1年になる時は、高校に進学する時ほど急に難しくは無いもののその変化に慣れるのには時間がかかるものである。

今は東大生が使う勉強ノートというようなものが売りに出されたり、「東大合格生のノートはかならず美しい」という本まである。

その昔もサブノートを作ると良いとして、ほとんど書かれているサブノートが売りに出されていた。しかし、そういうノートは中学校のレベルのことしか書かれていないから無駄の一言に尽きた。

そのスタートダッシュの4月というものは、何となく過ぎてしまった。
その昔は、部活は何でも良かったから「卓球部」に入った。
入ったと言っても顧問の英語の先生に入りたいと言っただけで何の案内もなかった。
その後に◯年◯組の教室が練習部屋になっていると言うのを知って、そこに行く事になった。1年生はラケットのフォームと基礎体力練習。ほとんど卓球台に向かう事も無く何か止めてしまった。
テニス部も大量に入るが、1年生は延々と球拾いでほとんど止めるのだそうな。
生徒が多かった時代の面白い現象であった。

そんなわけで早々と卓球部は幽霊部員になりその後止めてしまった。
それで何か咎められるという時代でもなく、内申書が悪くなると言う事も無かった。
そもそも高校受験に内申書は一切関係が無い一発勝負だった。

連休に家庭訪問がある。
小学校の時代には、家庭訪問の時にはわざと家にいないようにしていた。
しかし、中学では家にいる必要があるのだとかで待っていた。











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syuun の不思議な少年時代 その32

映画「ALWAYS三丁目の夕日'64」という映画が公開される。
1964年と言うのは、東京オリンピックの年で種々記憶に残る。
その始めは札幌から手紙で「東京オリンピックの入場券を買って!!」いう話しが母のところに届いていた。札幌からと言うのは北大に進学していた兄からで、なぜ札幌で買えないのか不思議な手紙でもあった。
それで3月の末か4月に売り出された東京オリンピックのチケット。
日本が参加する様なバレーボールなどはとても買えるものではなく、買って来たのが「ホッケー」と「ラグビー」だった様な気がする。
バレーボールは買えなかったというと「それならけっこう(要らない)」ということらしかった。
1964年と言うのは、厭な年の幕開けというものだが特に熱い一年だった。

【昭和39年、1964年春 その2】

当時の典型的な学校建築である第一中学校。
今見れば耐震設計なども出来る余地がないほどの老朽建物である。
入学式、事前に購入した今でも学校で使っている上靴。この年の新入生は黄色だった。
ここで入学式があったはずなのだが、入学式の記憶というのがさっぱりない。
それもそのはず、この時の体育館(旧々体育館)は小さくてあまり人数が多いので入学式の代わりに放送で校長先生が挨拶して入学式の変わりをしたのである。
翌年には新体育館が出来てそんなことはなかった。
その上、クラス分けされたクラスの席についてもどう言うものだったのかも全く覚えていない。
多分、勝手に好きなところに座れと言うものだったのかも知れない。

担任は、M先生と言って理科の教師で天然パーマと「弥五郎」という特徴のある名前であった。
この「弥五郎」という名前は「祖父の名前」なのだそうで、その名前を引き継いだと自ら説明していた。
このM先生は学年主任でもあって、伯父と同じ年齢くらいだったらしい。
今でもこの名前でググルと「昭和47年度の教育研究の記録」に出てくる。
後年校長にもなったという噂だが、確認出来ていない。

一年生に入るとまずは部活の選択をするのだが、先生は異口同音に
「部活をしていると進学出来ないぞ!!」という時代なのである。
運動部、文化部‥‥という選択枝では事実上運動部しかなかった。
兄は、「電気部」というところに入っていて部長をしていたこともあった。それもカリスマ電気部長で部員が50人以上だったと言うから凄いものであった。
その電気部というのは何をしていたのかと言えば、ラジオなどを作っていたのであった。今で言えばパソコン部と言うようなところである。
そして、その電気部というのは部員がいないためにこの年に廃部になった。

最初のホームルームだったか、理科の授業だったかの話。
天然パーマのM弥五郎先生は、先生の記憶に残っている「先輩のOBと同じ名字」があると「◯◯という卒業生がいたが、◯◯は親戚か?」と聞くのが通例であった。
そして「◯◯と関係が明らかになると」
「◯◯は凄く勉強が出来たヤツだ」と言うのである。
小生から見れば「それが何だ」と思うのだが、3年生の時に再びM弥五郎先生が理科担当になった時も同じことを聞いた記憶がある。
そしてこのM弥五郎先生の悪い癖は、生徒がうるさくしていると後ろの黒板におもいっきりチョークを投げることであった。
「バシッ」と。
あるとき、黒板のチョークがないので「どうした」とM弥五郎先生が聞く。
すると生徒
「先生がみんな投げてしまったではないですか!!」
それでは、職員室からチョークを取ってこいと週番の生徒を職員室に取りに行かせるのであった。



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syuun の不思議な少年時代 その31

【昭和39年、1964年春】

昭和39年と言えば何を思い浮かべるのであろうか?
思い付かなければ1964年と言うことで、東京オリンピックの年である。この東京オリンピックを前にしてうちでもテレビをようやく買った。
テレビが普及したのが今上天皇の御成婚の年、昭和34年前後とも言われる。しかし、昭和34年にテレビを買ったという家はそれほど多くない。
それどころか、まだ電話も普及していなくて電話を入れるのには抽選だとか、債権を買うとかなどの種々の手続きが必要だった。
電話が急速に普及するのは、申し込みさえすれば入れることが出来たその翌年(昭和40年)くらいからである。
そして、その昭和39年という年が、小生(Syuun)のとって絶対に忘れられない年になるとは思いもよらなかった。

その昭和39年の4月。
朝八時前に家を出て、約1キロ先の中学校へ向かった。
その中学校とは、前橋市立第一中学校といって前橋刑務所の直ぐ隣にあった。
その中学へ行く道も中学を通り越して少し行くと行き止まりで、見渡す限り水田か桑畑のどちらかだった。
遠くに見える森が神社でその一画だけに人家があった。
そんな面影は、今ではとても思いもよらないもので、元々郊外に在ったはずの中学は今では市街地の真ん中になっている。
そして、真新しいダブダブの学生服を着て、今でも変わらない正門をくぐったもののどこへ行ったら良いのかうろうろする始末だった。
通学途中の上級生は新一年生か!と声をかけきて、「入学式はもっとあとだせ」と言うことらしかった。
考えてみれば、入学式の時間などを確認してこなかったし聞いた覚えもなかった。

兄がいれば多少なりとも助言を得るところであった。しかし、兄はその年北海道大学(当時の一期校)に合格して札幌に行ってしまった後だった。
母に言われたのは、「兄ちゃんもダブダブの学生服だったわよ!!」
と、ダブダブの学生服を怪訝に思う小生に言われたことぐらいであった。

多少雨が降り出し、9時を過ぎ誰いなくなった正面玄関の屋根のある通路で待ちくたびれていると一人の新入生と思われる男子学生が来た。
それは、同じように身体に合わない学生服を着ていて、お互いに制服を見せ合って何やらホットした気分だった。
さすが9時半になると玄関の通路は、新入生で一杯になってきた。
するとどこからともなく、先生が出て来て
「クラス分けを発表します。体育館の横に貼るので、それを見てクラスに集まるように!!」
‥‥と通路に集まった新入生は一斉に雨の中校庭を走って体育館の前まで行った。
黒山の人だかりを見ていても中々名前が出で来ない。
やっと見つけたと思ったら1年10組だった。
一クラス48人から49人、全11クラス、学年人数約535人。
この人数は、今では市街地の小学校に全校生徒よりも多い。
しかし、全校生徒となると約2,000人にもなるのである。
概算で大まかな人数を上げておくと、2年生13クラス約640人。3年生15クラス約780人。
こんな数値というのは今ではとても考えられない。今の第一中学校の全校生徒でも500人に満たない。

そんなわけで、1年10組約50人の名前は覚えきるうちに2年に進級してしまったというわけである。
ここから普通高校へ進学すると言うのがいかに困難を伴うのかと言うことを説明する。
当時の高校の通学区域というのは、前橋市、伊勢崎市とそれに隣接する郡部であった。
そして女子校を別として前橋市の唯一の公立普通高校とは、最難関校の県立前橋高校しかなかったのである。
その前橋高校には、おおむね伊勢崎とその周辺から約200人、前橋とその周辺から約200人という構成である。
ベビーブーマーの時期に合わせて定員が450人になったために増えたと言ってもSyuunなどが入学したときの定員が約432人。
そして「前橋とその周辺から約230人」という感じであった。
その約230人の構成とはどんなものだったのだろうか。
当時の中学校は、一中から七中までのナンバースクールのほかに7校、郡部に4校、群馬大学学芸学部付属中学校で全19中学校であった。
その内で付属中が概算で65人、一中が63人、三中が40人の4校で7割以上の入学者を占め残りの約60人が15中学からと越境入学者に占められると言うものであった。
だから、上位4校以外では、学年で5人程度入学出来れば良い方で、1人という中学も珍しくないのが現状であった。

そんな状況下で、「兄ちゃんが進学出来たのだから僕だって進学出来るさ!」という甘い気持ちだけしかなかった。
あとから考えてみれば、兄の時代というのはベビーブーマー世代の直前でかなり人数が少なかった時代であったと言うことだった。

syuun の不思議な少年時代 その30 Episode 1
               その8

【幼稚園の中のもう一つの幼稚園・年中時代3】

そんなリンゴ狩り。
実は、知らされていなくて行かなかった人が沢山いた。
あとでリンゴ狩りの話しをしたら知らなかったという人達ばかりだった。
K園長は言う
「リンゴ狩りは、寄付金を納めた人達だけの個人的な遠足です。」
こんなことも問題になって、父母から抗議が出て、翌年からは園児全員がリンゴ狩りに行くことになった。
いずれにせよこのあと、母は相当腹立たしかったらしく、11月、12月分の寄付金は払わなかった。
その寄付金。
寄付金というのは規定はなくて暗黙の了解だった。
だから当然その額は、決まっていない。
入園当初に月謝を払った後に、会計担当の先生に「あと寄付金を納めてください」と言われたのだか、その寄付金を母は知らなくて金を持ってこなかった。
寄付金‥‥金額はというと「寄付金だから幾らでも構いません」とその先生は言う。
それでは分からないから「ふつう幾らぐらい払っているのですか?」と聞いたところ‥‥
困ったような顔をしながら「月謝の1ヶ月分の人が多いです」というものの、「(月謝の)半分の人もいます」という。
「寄付金ですので、払える金額で結構ですし、払える時で結構です」とも言っていた。
実際、その後色々な人に聞いて見たところほとんどの人達が「月謝の半分」だったようだ。

秋の深まる11月。
突然今までの単なる童謡からクリスマスソングに変わった。
毎日ジングルベルである。
そして、良く分からない聖書の話し。
そのうちに何やら年長組の混じって「劇のまねごと」に参加する様になった。
参加するといても、年長組が何かやるのを見ているようなその他大勢、台詞一言である。
その劇とは、クリスマスパーティに向けてのキリスト誕生の劇であることはその後分かった。
昼食の前に「天にまします我らが神よ‥‥」「アーメン」などとお祈りをしてから食事をすることさえ何だか分かりはしない時である。
ましてキリストというのは誰というのが当時の感覚であった。

そのクリスマスの観劇のリハーサルは、通常の園の授業を全く無視して延々と毎日続いた。
要するに、先生は観劇の準備に余念がなかった。
そして劇では、その背景や被り物などは既に作られていて、園児はその中に単に入れられるだけのことである。
今でこそ12月24日はクリスマスイブとして誰も知らない事はないのだが、昭和31年の冬ことである。
当然園児としては何も知らない。
そんなときには物知り顔の園児というのが何時もいて、キリストの馬屋での誕生秘話をとうとうと話してくれた。
しかし、それが何なのかは当時は知るよしもなかった。
12月中旬になると突然観劇のリハーサルの見学もその劇中に入ることもなくなり、園舎の教室で幾人かと延々と自習する日々か続く。
そしてリハーサルが済むと何時もの悪ガキが戻ってくると共に閉園時間が近づく。
そしてその24日が近づくと突然クリスマス会の観劇のリハーサルがなくなった。
別の日にする事になったのか、行われなくなったのかははっきりしない。
それで講堂を覗いてみると何やら雑然とした趣になっている。
そして、幼稚園の終業式というのは12月23日であった。

講堂は、既にクリスマス会の飾り付けは終え最終点検を先生がしているところである。
それでクリスマス会はどうなっているのかと先生に聞くと、「聞いてきます」と主任の先生に聞きに行くと午後の1時だったか2時だったかの時間であった。

12月24日の寒い一日。
午後の1時、2時ではおかしいと思って母に言うとそれなら12時頃に行ったらという。
それでも遅すぎると11時20分頃に幼稚園につくと講堂の椅子の半分はガラガラでクリスマス会は終盤にさしかかっている。
そしてなぜか休憩に入って、ざわざわとし始めているではないか。
良く見知っている悪ガキの後ろに行くと、
「おう、こっちへ来いよ」
「ずいぶん遅いじゃねーか、もう終わりだぜ」
という。
その悪ガキは、フサの付いた銀色の三角の帽子を被って、靴の形をした小さな菓子を持っている。
しばらくすると、先生が
「お菓子をもらっていない人はいませんか」という。
悪ガキ
「この子がもらっていません」と言うのだが、先生は嫌な顔をして無視する。
「なんで休憩に入ったの?」と悪ガキに聞くと‥‥
悪ガキ
「あ!、それは付属の卒業生が来るのが11時半なんだよ」
「なぜ?」
「付属(群馬大学学芸学部附属小学校)は今日が終業式なんだ」
そんなふうに話している間に、ゾロゾロと冬なのに半ズボンの制服を着た小学生が集まって一杯になってしまった。
それを見計らって、クリスマス会が再開されて園児の名前が呼ばれる。
園児は、呼ばれると前に出で行って今までもらった小さな「銀の靴の菓子」ではなく、より大きな「靴」か又は何かのものをもらう。
その悪ガキも呼ばれて、一抱えもある特別大きな「菓子の入った銀の靴」をもらってきた。
それから、後ろの小学生もゾロゾロと前に呼ばれて菓子のプレゼントをもらいそのまま帰ってしまう児童もいた。
それで終わる頃にはだんだん閑散として来て12時には終了。
帰り際に悪ガキは
「こちらがあるから、これはやるよ」
「見た目だけだからね‥」と
小さな「靴型の菓子の詰まった網」を寄こした。
うちへ帰ってこの「靴型の菓子」を開けてみると駄菓子屋で買うような「あめ玉2-3個」と「チョコ味のビスケット菓子」という有様。
それは確かに見た目だけのクリスマスプレゼントだった。

家に帰って、母に事情は話すと良く理解したようで
「来年はクリスマス会に参加出来るようにします」と言い切った。

昭和32年の12月。
前年のクリスマス会と同じようにリハーサルが始まり、役どころとしては一言だが前年に見たキリスト誕生秘話の部分ではない。
何を演じていたのかは今でも分かっていない。
しかし、前年のように「園舎の教室で幾人かと延々と自習する」という事はなくなった。
それでも数人自習していたのだが、昨年のことを園児に伝えると翌日から一緒に劇に加わるようになって、自習している園児はいなくなった。
昭和32年12月24日のクリスマス会。
小生が来る時間は10時だった。
それは、観劇に出る時間だと教えられたのだが‥‥

それで当日10時に行くと当然クリスマス会は始まっている。
既に、大きなクリスマスプレゼントの包みがあちこちに配られているのが見て取れた。
自分たちが座る席はガラガラで、まだ後から園児が来る様子だった。

しばらくすると自分の出番が廻ってきて壇上から降りてくると前年より多少大きい「銀の靴の菓子」をもらった。

そして、例の悪ガキに会うとこう言う
「僕は9時半だった」と昨年より多少小さい菓子の袋を上げて見せた。
クリスマス会は、9時から始まっていたらしかった。

何のことはない、寄付によって「クリスマスプレゼント」をもらう時間が異なり、もらう大きさも違うと言うわけだ。
「付属の卒業生は?」と悪ガキに聞くと
「今年から終業式が23日になったんだ」
「よく見ろ、後ろにいるだろ」
と言うような事を話しているうちに終了してしまった。
そして時間はなんと11時だったのである。



syuun の不思議な少年時代 その27 Episode 1
その7
【幼稚園の中のもう一つの幼稚園・年中時代2】




syuun の不思議な少年時代 その26 Episode 1
その6
【幼稚園の中のもう一つの幼稚園・年中時代2】


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