広報まえばし平成26年1月1日号(みんなと未来をつなぐ前橋情報紙 広報まえばし 2014.1.1 No.1499) という前橋市の広報誌がある。
この中で「楫取県令と前橋二十五人衆」と言う記事があり、25人の名前が列挙されていた。ここでの問題は以下の部分
「下村善太郎を中心とした前橋の有力者25名は、県庁を誘致し、前橋を関東の大都市とするためには、いかなる犠牲をも払う覚悟で楫取に協力を約束した。楫取はその至誠に感動し、県庁を前橋に移す決心を固めた。前橋二十五人衆とは、次の方々である。
下村善太郎・勝山源三郎・勝山宗三郎・須田傳吉・大島喜六・江原芳平・市村良平・竹内勝蔵・横川重七・松井林吉・鈴木久太郎・荒井友七・荒井久七・深町代五郎・八木原三代吉・筒井勝次郎・中島政五郎・田部井惣助・武田友七郎・横川吉次郎・生方八郎・桑原壽平・太田利喜蔵・久野幸人・串田宗三郎」
(前橋市・広報まえばし・広報まえばし平成26年1月1日号テキストデータより抜粋)
この文章での曖昧さは、前橋から高崎に県庁が移ってしまったと言う前提が正確に述べられていないこと。
そして、高崎から前橋に県庁を戻すにはどうしたらよいかで、当時費用として10万円(一般的な給与が月額10円の頃の話)必要だったことなどがない。
その10万円を集めるに当たって、前橋の雄志からの寄付として1万円を出資すると言い出したのが冒頭の「下村善太郎」翁で初代前橋市長になる。
それでこの25人は、このときに寄付として出資したのかと言うことになると甚だ疑問である。
何故かと言えば、この10万円というのが明治初頭当時としては途方もない金額だからである。
下村善太郎翁が寄付した1万円とは実際の貨幣換算ではなく今の感覚として考えればおよそ10億円という感じである。
なんと言っても、あの安田財閥の安田商店(銀行)の総資産が5,000円だったというのだから。
要するに生糸商人で莫大な利益を一気に儲けた一発屋や生糸相場で当てた人物なのではなかろうか。
ちなみに、あの山種証券を創設した山?種二翁は、高崎から東京に出て米相場で当てたという話は有名。
小生などのみみっちい感覚で言えば、宝くじで7億円でも当てれば、1,000万円くらいは寄付も出来るかな???なのである。
このことから寄付できる人物というのは当時としても、自ずと決まってくるのではないだろうか。
少なくとも最近までは、その一族というのは終戦直後の財産税(税率90%・農地解放に対する市街地での課税)でほとんど破産したとはいえ、前橋の町に痕跡を残していると思われる。
(記事と写真は関係がありません)
実を言うと、小生は青少年育成委員を嘱託されているために毎年1月に新年会に出る。
それでこの「前橋二十五人衆」を聞いてみれば、ほとんど知らない人ばかりなのである。
名字から今でも残っていて少なくとも資産家と評されるあの家の先祖かと思われる人物もいる。
しかしながら、下村善太郎翁に継ぐ大口寄付をした人物は載っていないし、戦後まで少なくとも名を知られた人達もその25人に入っていない。
その新年会で聞けば、我が家の先祖も寄付したはずだが・・・という意見も合った。
(記事と写真は関係がありません)
この「前橋二十五人衆」を調べてみれば、幾人かは分からないではないが事実上ほとんど分からない。
ちなみに、小生の祖祖父の荒井甚次郎は、明治維新の時に松平氏(前橋・厩橋城主)の入橋について入橋し、その後相場で財を残し前橋のかなりの部分を所有したという。
この荒井甚次郎が当時寄付の中心になった関係から5,000円の出資をしている。
そして当然この「前橋二十五人衆」には含まれていない。
その一方で寄付できる資産家だったのに渋って最後まで出資しなかったとして有名だった人物がこの「前橋二十五人衆」に含まれている。
極めて高額の寄付だったので、出し渋るというのは理解できるとしても、出資したように記録されるというのは草葉の陰の本人としてもばつが悪かろうと思うものでもある。
本文と写真は関係がありません。
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