世の中妙な??事ばかり

ヤフー知恵袋入試問題投稿の春の珍事


3月も雛祭りの時期になった。こういう春の訪れはスギ花粉と共になのだが、身近では突然パソコンのマウスが動かなくなった。
厳密には、バックグランドで何か動いているかのようにマウスの反応が悪い。
しかし、CPUを見てみればほとんど動いてないからそんなはずはない。
ワープロソフトを立ち上げて見るとカーソルが中々動かない。
こういうものはMSから何かダウンロードされて、その影響であるというのは推測されるものである。それで昨年はいずれ改善されるであろうと1ヶ月我慢したことがある。
ところが今年はWindows7(32bit)の「アクション センター」が3つの問題点を指摘してきた。それは、ブルースクリーンになる原因としてのビデオドライバーの不具合。AdobeAcrobatの不具合。3つ目は何だったか。
解決策→→Windows updateで解決することもあります!!と‥‥
Windows updateしたら、7のService pack 1が入ってしまった。それで「アクション センター」の方は何とも言って来なくなったが、不具合は改善されない。
結局「アクション センター」の指摘通りATI Radeonのビデオドライバーを最新のものに更新したら直ったと言うお粗末。
しかし、64bit版の方はこういう不始末は起きないのが不思議。32bit版ではAdobeAcrobat Xに更新されたが、そんなこともない。
こういう何時ものPCの春の珍事ではなしに「ヤフー知恵袋入試問題投稿」という話が問題になって、東北の高校生が捕まった。
今日の夕刊や新聞社のWebでは、19歳の予備校生の話で持ちきりだった。しかし、考えてみれば今時、セキュリティという観点では甘い携帯電話で不正(カンニング)をするというのだから呆れる。当然、入試でカンニングという不正をすることは許されるものではない。
固有のIPアドレスからその元が辿(たど)れるというのは、この秋の尖閣問題を見てもニュースさえ見ていれば明らかだった筈である。見ていなくても、パソコンを扱っていれば常識の内に入る。
一方、警察の内部資料が流出した件は、プロキシサーバーを経由していた「プロ」の犯罪と言える。通称「串」とか言われていて、全く関係ないサーバーをいくつか経由して、目的地にたどり着く。
昔のハッカーの映画によく出で来るやつである。
ところが、携帯電話では例の「振り込め詐欺」に使われるプリペイド式の携帯電話でしか悪さは出来ない。
そして、今の携帯電話には写真を文字として読み取るOCR機能がある機種があるようである。結局そう言う「文字スキャン」をして送信したのではないかという予想がなされている。
又、この予備校生は京大の合格名簿などに載っている様だ。
こういう入学試験や資格試験というのは、一般にほとんど全部出来たという感じでないと合格しない。
特に医学部などは全問正解が基本で、一問間違えて不合格というのは良くある話である。
小生の頃の高校入試も全問正解以外合格者はいなくて、1問間違えて不合格という話は聞いた。
入試などは、昔も今も全問正解でなくとも入れることも当然ある。
そう言う場合でも「ほとんど出来た」という感覚は必要だが、そう言う試験問題の内でほとんどの受験生が「出来ない」という難問があることがある。
そう言うものは、誰も出来ない場合が多いから出来なくても良いが、出来れば大きいプラス点になる。
そう言う問題がカンニングで完璧に解けたとしたら、大きく合格に前進する。
だから、今回のカンニングというのはそう言った部分であると言えるかも知れない。
しかし、他の部分がほとんど出来ないと合格しないのであるから、仮定として考えてもカンニングしなくても合格したかも知れないのである。
そんな感じで大学に入ると、実はカンニングのオンパレードだったりする。
特に有名名門校だとカンニングに関しては緩かったりするから、尚更かも知れない。
一方、入学試験が面接と軽い試験だけだった様な大学だと、カンニング発見専門の第三の試験監督がいるという。
見つかれば停学で、留年だ。
そんな話とは別で‥‥‥
ある優秀な学生が集まる名門大学では、男子学生ばかりの中で美人の女子学生が「マドンナ」になったりすると、勉強を大してしなくても「優等」で卒業出来ることになっている。
そういうことがなかった場合、勝手に答案用紙が覗かれることなどはいくらでもあった。
小生なども大学4年の時にやられた。
覚えていたことが上手く出題され最初に解答したら、知らぬ間にそのまま後ろの学生に見られた。‥‥最初に解答したから「正答」だった筈だよね‥‥と言われてがっかりしたものだ。
大学の成績というものは、大学3年時までで決まるから4年生での成績は付け足し。
だから、目くじら建てて怒る気もしないという体(てい)たらくでもあった。



NZ大地震で「九死に一生を得る」幸不幸の不思議さ


運命分けた昼食 ビル倒壊10分前に外出」(産経新聞・共同通信)と言う記事があった。
この記事では「ニュージーランド大地震で、崩壊したクライストチャーチ市の語学学校『キングズ・エデュケーション』から、発生10分前に昼食のため外出、難を逃れた生徒がいた。京都外国語専門学校の持田知穂さん(19)=滋賀県。」と書かれている。
ところが、この記事と同じようなことは、読売新聞2月26日朝刊には「初めて校外での昼食、その日に‥‥」別の女子学生の話として読売新聞独自取材として掲載されていた。こちらは、滋賀大学2年生の女性(大津市)。
共同通信伝で「地震前日の21日夜、友人女性から、学校の外で翌日の昼食を食べようと誘われた。」とあるのだが、実は4人で昼食を食べに学校を出たらしいことが読売報道でわかる。その後の状況や行動が同じなので間違いないだろう。
こういうふうに、ほんの少しのところで生死を分けると言う事は事件を見ると良くある様である。
考えれば、あの御巣鷹山で遭難した日航ジャンボ機でも満席でキャンセル待ちで搭乗して遭難した人もいれば、搭乗キャンセルして難を逃れた人もいると言うことである。
そう言うことは以前どこかで書いたかも知れないが、従兄弟のことで昔聞いたのもそうであった。
それは、まだ沖縄が返還されるずっと前の話。
沖縄の学術調査団の一行に学生の分際で加わっていた従兄弟。どこからか(どうと言うことがない)電報が来て急遽1日早く帰国(返還前なので)することになった。その一日早い飛行機で帰って来て何ともなかったのだが、翌日の予定で乗るはずだった飛行機は遭難したという話。
しかし、その遭難記事は結構大きな取り扱いだったから覚えているものの、ネットで飛行機の遭難記事を調べても良く分からなかった。
いずれにせよ、そう言う生死を分けそうな「難」を避けるのも運がよいとも言えるが、種々調べてみると実そうとも言えないことが多い気がする。
そう言う「九死に一生を得る」様な人というのは、長い人生で何故か3度くらいは大小はあろうとも「九死に一生を得る」様なことがある。
そして4度目はアウトというか、本当ならこんなことで何故と言うところで亡くなったりする。
事実「九死に一生を得た」様な人というのは、そんなことが多い。
考えれば、あの不死身のオーディー・マーフィー(Audie Murphy・第二次世界大戦で24個の勲章を受けた映画俳優・監督)も亡くなったのは単純な飛行機事故であった。
ここからは運命論みたいなものになるのだが‥‥‥こういう「九死に一生を得る」様な人というのは、実は普通の人と違って運勢が逆転していると考えている。
「九死に一生を得る」訳だから、ほとんど助からないのに運勢が逆転しているために自分1人だけ助かると言うわけである。
そう言うわけだから、普通の占いで「今年は良い年」と言うときは「悪い年」。そして「悪い年」と言うときは「良い年」になる。
しかし、その「良い年」が元々「悪い年」なのだから単純によい年になるわけではないところが悩みが多い運勢になる。
「九死に一生を得る」と言うことのために、その何倍も不運に悩まされる一方で、死地を数回脱するというのはやはり運勢は「ゼロサム」であると言うことである。
誰でも人生に一度は大金を手にすると言うのも嘘ではないから、宝くじで大金を当てると言うことだってありうる。
しかし、そう言う人はやはり不思議とその他では大金を手にすることはない。宝くじの当選というのも運勢的には何か問題がありそうである。
そうして、その運勢が逆転している人は「九死に一生を得る」時は「生」に振れ、誰もがそんなことで亡くなるものかという事柄で簡単に亡くなる。


いずれにせよ、そういう「九死に一生を得る」と言う様な経験は出来ればしないほうがよい。しかし、そんなことは運命づけられているから逃れようがない。
その上「運勢が逆転している人」の占いというのは、占いの枠外にあると言うものである。そう言う占いが全く当たらない人というのが世の中にいるのである。
そして、「運勢が逆転している人」かどうか調べることはある程度の経験則から推測出来るだけであると言うのも紛れもない事実である。



高崎市の自治基本条例の外国人地方参政権容認の不思議な光景


群馬県高崎市の市政運営の理念を定める「自治基本条例(仮称)」(まちづくり基本条例)で、外国人地方参政権容認する動きとして注目されている。
近年では産経新聞Web地方版で詳しく書かれている。
特に「高崎新聞」という「特定非営利活動法人メディア高崎」が運営する「高崎の都市力を発信するWebニュースサイト」ではより詳しく書かれている。
それによると「自治基本条例は、高崎市のまちづくりの最高規範となるもので、21人の市民委員と高崎市の職員によるプロジェクトチームによって、昨年(平成21年)8月から盛り込む内容の検討が行われてきた。」 という。
15日の報道では「最高規範」の削除されたが、高崎市市企画調整課は「市内に外国人は4,300人もおり、無視した街づくりは考えられない」という。(読売新聞地方版・Web共)

その「市自治基本条例検討市民委員会」の市民委員長が池田貴明という(写真で見る限り)若手の弁護士である
「高崎新聞」では「高崎市自治基本条例/素案公表で反響」として
住民投票について、素案では投票資格については何も記述されていないにもかかわらず、外国人参政権を認めるのは反対とする論調の意見が多くあった。この条例案では、外国人も高崎市のまちづくりを進める主役の一人として理解され、住民投票の投票資格については書き及んでいないことは明らかだ。条例中に投票資格が記述されていないことが、不安材料となったことも考えられる。」と言う様に高崎市の言い分を代弁している。


しかし、産経新聞による池田貴明市民委員長、嶋菊好市長公室長、松浦市長へのインタビューでは高崎新聞が書いているニュアンスとは全く違う。間違いないところでは、「市民」を国籍を問わないとしていることである。
条例素案を要約してある産経新聞Webを引用すると‥‥‥
「市が昨年12月に作成した条例素案では『市民』について外国人も念頭に『市内在住、在勤・在学者』と明記。市から条例作りを諮問された市民代表者も外国人を『市民』と認める提言書を市に提出済み」


そうして、高崎市側では「素案を住民に示した上で意見を求める『パブリックコメント』」を実施した結果批判が寄せられた途端に、委員会名簿をWeb上から削除したり種々非公開にしている。
こういう「自治基本条例(仮称)」というのは、長年松浦市政が続き今度引退するに当たっての花道の条例というのかと思ったりもする。
戦後の市政は石井市長による前橋市が断然リードして、それを真似るという高崎市というのが慣例だった。
その後前橋市が20年にも亘る石井市長であったために低迷し始め、その後助役から市長になった官僚市政、箱物市政が長く続いた。
続いて、市街地を空洞化させる新市街出身の市長市政が続き前橋市はとどめを刺された。
一方、元々松浦パンの社長から高崎市の市長になり、前橋市を反面教師として高崎は大発展した。その松浦市政も20年(?)続きもう引退らしい。
こういう多選市長の時には、いろいろと妙な事が起きるものである。
それにしても、高崎市というのは妙な官僚臭がする。
実はこの高崎市役所と前橋市役所の市民課を覗いてみると、前橋市がサービス業に徹した庶民的なのに対して、高崎市は官僚的である。
特に、今の高層ビルが出来る前の高崎市役所では、受付(インフォメーション)の厚化粧をしたオバサンからして非常に高圧的だった。その上学校でもあるまいし、何かのスローガンを掲げた張り紙がしてあったり妙なものでもあったと記憶する。
今の高層ビルの高崎市役所はではそんなことは無いが、高崎人というのは集団になると何か妙な雰囲気になるのである。
‥‥とは言っても、前橋市も市民課ではなく上層階に行けば打って変わって、県庁ほど酷くはないが官僚臭はする。
いずれにせよ、前橋なら「自治基本条例(仮称)」と言う様な条例は作らないかもしれない。作ったとしても、あの「平和都市宣言」みたいなものだ。
元々、高崎市では「最高規範との位置づけは、あくまでも理念的なもの。」という構想であったらしい。そして、「さかのぼっての条例書き換えや、今後制定される条例が縛られることは現時点ではない。条例はいずれも並列の立場で、住民投票条例も同じ。個別に定める」とWeb版では説明している。しかし、修正されたのは「前文の記述」であって、条文は残っている。


第10章 条例の位置付け

■ 条例の位置付け

市は、他の条例、規則等の制定改廃、解釈及び運用、総合計画等の策定及び運用その他市政運営に当たっては、この条例を最大限尊重し、及び遵守するものとする。」


‥‥と言う様に、今後制定される条例はこの「自治基本条例(まちづくり基本条例)」に制約される。
いくら市当局は「外国人地方参政権」を曖昧にして言及しなくても、条例が成立すれば条例の条文が生きる。
旧帝国憲法解釈が、明治の元勲が亡くなった以降に条文だけの解釈が行われたのは歴史が証明している。



日本相撲協会「八百長メール事件」の伝統とは


相撲の八百長というのは、週刊誌で騒がれて何度も出て来て周知であったから、今回の「八百長メール事件」ではやはりそうかと言う感が強い。
週刊誌の方は、2007年の「週刊現代」が提訴されて一審で「4,290万円の賠償と記事の取り消し広告」。2010年10月に最高裁上告棄却で賠償額が「3,960万円に減額」された2審判決が確定したという。(読売新聞・夕刊)
週刊誌の名誉毀損損害賠償額も膨大だが、今回の「八百長メール事件」が真実としたら最高裁まで行って裁判官は、皆目は節穴だったと言う事になる。
それで、その時「どういう落とし前」をつけるのかとも思うが、こういうところは「それとこれとは別」と逃げるのが常套手段だろう。
事実こんな風に言っている。
「理事長は今回の問題を『過去には一切なかったこと』と強調、過去の疑惑が蒸し返されないようくぎを刺した。」(産経新聞)こんなことは、多分誰も信じないだろうけど。
そもそも、裁判官というのは日本相撲協会などの公益社団法人は悪いことをしないという思い込みがあって、個人やマスコミの言うことを信用しないことが多い。
強い物には巻かれろと言うのが、裁判官でも通用することがある。
相撲の八百長というのは大昔から何やら八百長臭いところがあって、千秋楽で「あと一勝で勝ち越し」と言うところでは必ず勝って勝ち越すことが多かった。
だから、「この勝負、勝ち越すのだな」と思うと間違いなくそうであったし、相撲の相手が「やる気なし」という場面もあった。
最近、「ガチンコ相撲」が多くなってやる気がないような相撲(無気力相撲)は見なくなったが、過去の取り組みだと八百長臭いものはずいぶんあったように思う。
こういう八百長相撲があったとすれば、そう言う相撲を経験したり耳にすることぐらい当たり前だろうから、相撲協会の理事などは間違いなく知っている筈である。
只、今もしているのかどうかと言う点が現役ではないから判らないだけなのかも知れない。


相撲というのは、国技、そして伝統と言うものを引きずる。
その伝統というものは、昔の宜い加減な「ごっつあん」の丸儲けから、賭け事まで何でも引きずっているのだろう。
要するに、伝統というのは良いことも悪いこともあるわけだ。
こういう伝統を引きずるのを公文俊平・多摩大学情報社会学研究所所長は「宗教文明」という。
この公文先生は、宗教文明についてその特徴を以下のように述べている。
○「自由」よりも「規律」が大事。
○宗教文明圏の背景にある基本的な価値観は、「伝統を維持」していくことが大事。
○伝統というものは放っておくと緩んでくるから(崩れてくるから)「復古」つまり昔に返ることが大事。
○過去こそ黄金の時代。過去に聖人か現れて‥‥
こんなことらしい。


この「宗教文明」の基準から見れば、相撲には賭博、賭け事や八百長なども全部は持っていたと言う事になる。
何と言っても伝統なのだから。



元米FBIフーヴァー長官を気取るのか民主党と最小不幸社会


北沢俊美防衛相直轄の防諜部隊「自衛隊情報保全隊」が自民党国会議員らの講演に潜入し、現職自衛官の参加状況を監視していた問題。(産経新聞)
この問題は、産経新聞が報道して自民党国防部会で問題になっていることだが、産経他読売web版でも見られた。報道されなかったのは毎日新聞で朝日は簡単に報道するも夜半になったらどこにあるか分からない始末。
調査内容は、自衛隊員が参加の有無(氏名)と講演内容だというから「自衛隊行事での民間人による政権批判を封じる昨年11月の『事務次官通達』」の一環であると言う。
こういう政治家などの行動を逐次報告したのが、米国ニクソン大統領下のFBIフーヴァー長官。
ところが、ジョン・F・ケネディ大統領になり、司法長官がロバート・ケネディになったために、フーヴァー長官の権限を制限しようとしたという話がある。
それにフーヴァー長官が抵抗し、秘密を暴露すると脅したために止めさせることが出来なかったという話もある。
これは一官僚が権力を持ってしまったことだが、民主党が言論統制を強化して国家権力として自民党の議員や保守系言論人を監視するというのはどう考えてもおかしい。
こういう言論統制に関しては、報道機関は敏感に反応するはずなのだが朝日、毎日新聞はほとんど無視の状態である。
民主党も朝日新聞なども所詮ご都合主義のダブルスタンダードだから、憲法違反でも何でもありと言うところだろうか。
それで、野党である自民党議員を監視させておきながら、野党に協議に乗ってもらいたいと言うのは虫が良すぎるというものだろう。
よく見れば、民主党というのは子ども手当て、高速道路無償化、高校無償化などのバラ捲きの政策の検証は事情仕分けでも一切しない。そして、その他の政策に関しても野党の意見と言うことを余り取り入れているように見えない。
そして散々言う「最小不幸社会の実現」とは共産主義社会の実現と同意義なのかも知れない。
その実現というのは、常識として国民全部が平等に「不幸」になれば「最小不幸社会」と言うものは簡単に実現する。
国民全部か裕福になって「最小不幸社会」にするというのであれば、そうするための金をどこからか持ってこなければならない。
しかし、それが出来ないからその手始めとして、消費税の大増税というのは「ゼロサム社会」と考えれば当然国民全体が貧乏になる事にしかならない。
その増税によって日本と言う消費社会を終わらせて、失業者を大量生産して国が失業手当を払う??
当然税収が上がらないから社会保障費は足りなくなり、その金をどこから出すのか良く分からないと堂々巡り。
要するに、最小不幸社会というのは実現不可能である。
ここである共産主義者(社会主義者)の意見を借りると、「最小不幸社会の実現」には国民を全員公務員にしてしまうのだそうな。そして自由経済の民間人として働くのならそのための税金を払うという妙な話なのである。
そんなことが経済として成り立ちもしないし、実現出来もしないというのはロシアや中国などの共産圏の失敗を見ても明らかなのに、未だに夢想を描いてる人物もいる。
但し、そう言う人物に限って経済活動をした事もなく、かつ現状において金銭には心配がないという人達であるというのは紛れもない事実である。
そうして、もう少し引いてみると彼らが理想としているのが、スウェーデンなどの様に半分が公務員で高負担、高福祉社会であることが分かる。
公務員の待遇を民間にと言うくらいだから、相当の経済音痴である。
事実は小説よりも奇なりで、スウェーデンでは中小企業は税の高負担のために成立していない。そのためその高福祉を支えているのが軍事産業(死の商人)であると以前から述べている。まあしかし、共産主義者はご都合主義だからそんなことは関係がない。
そんなものだから、日本のGDPの十分の一しかないスウェーデン社会の仕組みと歪みは全く無視して、お話にならないこれまた夢物語である。


この様に今の菅政権というのは密かな言論統制までを敷き、又あわよくば人権委員会という秘密警察を組織して、共産主義社会に突入させようとしている。
そんなことは国民に知れ渡ってしまったから、支持率は上がるべくもないし次期の衆議院選挙では下野するというのは既定事実化している。
そう言う国民の意思から浮いて求心力の欠けた政権というのは、言論統制を敷いて独裁化に走ると言うのが世界の常識である。
ところが、ここは日本国憲法によって取りあえず押さえ込まれている。
世界中の政権は、フランスで共産党が政権を取った時でさえ、軌道修正して中道保守へ政策転換した。ところが、今の民主党はそんなところが見えない。
既に、応援団にも見放された末期症状の民主党政権。
この政権に尻尾を振る人達は、いずれ国民から排除される運命にあるが、それでも尻尾を振りたがる人達がいるというのは不思議なものである。



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