映画、書評など

小宮姓の元になった忍城攻防戦の真実

「のぼうの城」の舞台・忍城攻防戦の秘密を探る

1590年・小説「水の城」「のぼうの城」の舞台・忍城攻防戦5


中央の女性二人のうち左が母、右が祖母。(撮影は、Syuun RICOHオートハーフ)

●忍城攻防戦というのは後世の伝えられる事柄には非常に秘密が多く、明らかに嘘とわかる分かるデタラメなども散逸される。
そのいい加減な話というのも、当時の人たちにしては当然あり得ないことであったから「与太話」として笑って済ませられたものも、時が経ってあたかも真実のようになる。

●この小宮家に関して書いている小生(Syuun)との関係は、母がこの小宮家の出と言うことである。
そして小さい頃に、祖母や伯父などに種々のことを聞いて見たりまたは、子どもだと思って無視されて聞きかじったことが沢山あるからである。
それだけでなく、時代は移り母も含めて伯父叔母の全ては鬼籍に入り、小宮家の話を知る人もほとんどいなくなってしまっている。
それで、多少は残しておこうと言うのがこの「忍城攻防戦の真実」である。

その中には「おまじない」という小生には良く分からない何百年も伝承されてきた病気を治す術があって、このことも多分親族では誰も知る人はいない。

祖母の晩年にこの「おまじない」の術を母に伝えようとしたのだが、「教えても良いというお告げ」が一回だけあり、それを当時迷信嫌いの母が拒否した。
それでその「おまじない」の術は(小宮家では)絶えてしまった。

●この忍城攻防戦において、今まで述べてきたように忍城の事実上総大将は、戸塚(別名・小宮山城)城々主、小宮山弾正介・忠孝。
実行部隊の指揮官は、小宮山(小宮)源左衛門・忠昌である。
この後の小宮源左衛門に似た人物が小説にも現れるというのは偶然ではないだろう。



●この忍城攻防戦の結果というのは、関ヶ原の戦いの直前において種々の影響をもたらし、その影響だけが現在に伝えられているという妙なことである。
そして、この忍城攻防戦では主力としては小宮山弾正介・忠孝旗下の戸塚城兵という元武田武士団であることは間違いない。
そして当時の農民というのは兵農分離されているわけではなく、槍や鉄砲なども持っている人達である。この武器などが国民から取り上げられた本当の刀狩りは、時々「拳銃などが倉から見つかったと言うように」実は戦後になってからである。

こういうふうに、農民というのを単に畑仕事をしている人たちだと考えると言うのは平和ボケしてしまった今の日本人なのかも知れない。
実を言えば江戸時代の農民や農村というものを学校の教科書でさえまともに教えられていない。
教えられているのは搾取される「かわいそうな農民」という共産主義思想でしかない。
だから江戸時代の「士農工商」という言葉の意味も歪曲して教えられているような気がする。
ここで断っておくと、「士農工商」の農とは「名主・庄屋・郷士・地侍」と呼ばれる元々の豪族のことである。
そして、そのほとんどが江戸初期のではどこかの大名に仕えた侍でもあった。

●この忍城攻防戦の結果としてどう言う事が起こったのかというと、この戦いに参加した元の武田武士団の仕官が決まったと言うことである。
この関ヶ原の戦い前の於いて、武田武士に人気が出で多くの家中に召し抱えられたという史実は有名である。
小説「水の城」にも
「徳川家康は、攻め手側にいた家臣からもその話を聞き、強く望み、実際、多くの忍城の武将たちは一族郎党、足軽らとともに徳川家に雇われるようになった。」
と書いてある。
*成田氏長も福井城1万石(会津若松)、そして野州烏山3万7千石の城主になっている。
そして「甲斐姫」はその武勇伝によって秀吉の側室になったのではなく、当然その「忍城攻防戦」の勇姿にあやかったと言うものである。

こう言う話というのは、あの忠臣蔵の直ぐ後の「仕官の話しが多くあった」話とよく似ているように、「武勇」と言うのが一つのステータスである。
武士というのは、常に心は戦場にあるという心構えを持つというのは、江戸時代をも通じて幕末でもそうであった。
NHKの「龍馬伝」で主演した福山雅治氏の坂本龍馬の様には「へらへら」と笑うというのは「常に心は戦場にあり」という心構えからは正にあり得ない。

そして、この成田氏家中ではあまりに当主成田氏長が不在の時に勝ちすぎてしまったからその内部でも粛正が密かに行われた節がある。
だからその後当時の城代、成田長親はいらない嫌疑をかけられて放逐され、小宮山源左衛門・忠昌は、「山を捨て」小宮になったと言われる。
即ち、成田氏家中には「小宮山」という人物はいなかったと言うことになったのである。



又、持田口を守った出城が後の小宮家の屋敷になるのだが、当時の大戦(いくさ)名人と謳われた真田昌幸がここを攻めた。
この先攻隊が真田幸村であった。
ここで真田幸村はかなりの苦戦をすることになるのは事実の通り。
そしてこれが大阪冬の陣の「真田丸」に繋がるとは誰も予想はしていないのだが真実である。


そして、小宮源左衛門・忠昌が帰農する事になり、その元の出城を屋敷とする。
その縁者は、その武勇を羨望して「小宮姓」を名乗ったと言うのが、関東での小宮姓の元である。

そして、この小宮氏に対して代々敬意を払うと言うのが暗黙の了解であった実例がある。それは小宮家の菩提寺「真言宗 智山派 医王山 遍照院」と言うのが鍵である。
この遍照院「慶長9年(1604年)徳川家康により薬師堂領として25石の御朱印を賜」とあり徳川家康も敬意を払っているだけではない。

この遍照院の隣の「臨済宗 妙心寺派 鷲峰山 大蔵寺」は、「文政6年(1823年)子孫の松平忠堯(タダタカ)は忍(行田)に移封された際、駒形の遍照院の南隅に寺を移し、現在に至る。」とある様にわざわざ隣に移している。

これはなぜかと以前小宮家の当主に尋ねたところ「小宮家に敬意を払って」という答えが返ってきた。

ちなみに、成田氏は水上公園北の「曹洞宗 平田山 清善寺」であって、遍照院に対して城の反対側である。





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「読む年表 中国の歴史」・岡田英弘著を読む



●この本は、あとがきにあるとおり岡田英弘の著書(「中国文明の歴史」など)を参考に、その中から歴史的事実と推考を年表としてワック出版が編集したものである。
この大きな命題は、本の帯にあるとおり「『中国5千年』のウソ」である。
その冒頭で「『中国』という『国家』も、20世紀にいたるまで存在しなかった。」と書かれている。
●この本の中では、日本との関わりも多く書かれていて
57「倭奴国王が後漢に朝貢」
107「倭国王帥升の朝貢」
239「倭の女王卑弥呼の使節団が来訪」
608「倭王多利思比狐が隋の煬帝に朝貢」
663「白村江の戦い」
その他である。
この本は、基本的に中国の歴史書を読み解き解説してくれる。実のところこの著書を読んでしまえば膨大な著述を読まなくて済むというものである。
しかし、その詳細というのがもっと知りたくなりもっと読んでしまうというのは出版社の罠かも知れない。

そんな時は「提携書店での受け取り無料」の「Honya Club.com」と言うものもある。




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その中国の歴史書を読み解き解説とは、歴史書が常に中国皇帝の正統性を記録する王朝の「公式の史書」と言うことである。そういう文脈で見ることによってたとえば日本(倭国)と古代中国というものの関係が分かり、又あまたの謎と言うものが分かってくる。
なんと言っても当時辺境のまだ統一国家でもなかった倭国が「倭奴国王」や「親魏倭王」という辺境国として最高位の勲爵を得ている疑問というのも氷解する。
又、日本との関わり合いのことから日本書紀の疑問点を導き出している。
608年「倭王多利思比狐が隋の煬帝に朝貢」の倭王・多利思比狐(たらしひひこ)、姓は、阿毎(あま)、字(あざな)は多利思比狐、号は阿輩?弥(おほきみ)、王の妻の号を?弥(きみ)、太子は、利歌弥多弗利(りかみたふつり)であるという。

この部分から「推古天皇と聖徳太子が実在したかどうかは、極めて疑わしい」という結論になっている。
この部分は、「日本史の誕生」という岡田氏の多くの論文を集めた本に詳しい。
実のところ日本書紀も史記に見習って、天武天皇がその正統性と日本国の建国事業の一環として書かれているわけである。
事実としては、天皇家の王朝としては「王系の切れ目」断絶がある。
1 23代 顕宗天皇
2  26代 継体天皇
3 34代 舒明天皇(629年)
この舒明天皇の子が天智、天武天皇と言うことになる。



●中国の歴史で「漢民族」という言葉がある。
しかし、この漢民族というのは事実上後漢後期に消滅したという事実を史書から調べ上げている。
*「漢書・地理志」より、前漢の平帝の元始2年(紀元2年)、帝国の総人口は約6,000万人。
*王莽の末年の内乱後は、20%(約1,200万人)に減少したという。
*後漢の光武帝が崩御したときの人口は約2,100万人(日本史の誕生・より)
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*後漢の中国の総人口は140年の統計で、約5,000万人
三国時代の魏の人口は、約250万人、呉は約150万人、蜀は約100万人と言われ合計で500万人という。
これで、黄巾の乱(後漢末期)から三国鼎立の時代には、中国の人口は10分の一に減少して漢族の事実上の絶滅と述べられている。
●それでこの本を読んでそうだったかとあらためて確認したのは、隋王朝、唐王朝の成立過程である。
十八史略を読んでいて、この三国鼎立の時代までは割合とその成立過程というものが分かりやすい。しかし、隋王朝、唐王朝となると突然登場するのが中々理解出来ないところであった。
実を言えば、この三国鼎立から晋の時代、南北朝の時代に書道の著名人がでている。
*有名人で東晋     王羲之、王献之、 北魏 鄭道昭など多数。

隋と唐の帝室は、元々遊牧民の鮮卑人・西魏の宇文泰の「八柱国」とその下の「大将軍」からなっている。
八柱国の一人、隴西郡開国公李虎--李虎の孫が李淵(唐・高祖)
大将軍の一人、陳留郡開国公楊忠--楊忠の息子が楊堅(隋・高祖)
そして、この時期に秦、漢時代の中国人が絶滅した証拠に漢字の読み方が「アルタイ語族」の訛りで発音することになったと鮮卑人の陸法言が編纂した字典「切韻」から証明している。
*楊貴妃の姉と従者が馬に乗っている唐代の絵では、皆馬にまたがっている。(遊牧民である証拠)




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●中国文化は、その後の漢人の王朝であった南宋の滅亡をで終わったと思っている、
なぜならモンゴル帝国の元王朝というのは、中国文化を徹底的に破壊し、殺戮したからである。
元王朝の実態が書かれた書物を見ると、とても従来からの中国感とは相容れない。
そもそも元王朝は、有力部族の集合体であって直轄領は散在していた。

●その他、儒教というのが中国の歴代皇帝に嫌われて、儒教で統治した政治というのがほとんど破綻した事実がある。
漢の宣帝は法家を重用し、厳格主義を持って統治した。それを批難して儒教を推進しようとした皇太子(元帝)は叱責され、事実として元帝の時代になって衰えた。
王莽は儒教を持って政治をしたが失敗したのは有名。

いずれにせよ、中国の歴史というのは中国が喧伝するような連綿としたものではなく、その孔子や孟子、その他の思想家が排出した漢族自体が消滅してしまっている。
そして、王朝が代わってもいずれ漢人の文化に洗脳されるというのはウソであることも分かる。
そもそもチャイナドレスが満州族の衣装で、特権階級の満州人でしか着ることは出来ず(漢人は二級市民)、
第一公用語は、満州語
第二公用語は、モンゴル語
第三公用語は、漢文
で公式文書はこの三つのことばで書くとあって清朝は満州人の国であったことがよく分かるものであった。





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真実の中国史【1840-1949】宮脇淳子・著を読む



●この本を一口に言うと、今まで学校で習ってきた中国の歴史感のもやもやを払拭させる書である。
ここでの中国史の意味とは序章の前の「はじめに」に興味深いことが書かれている。
それは日本の歴史観から見た中国ではなく、「中国の立場から見た中国の歴史」と言うことである。
その一つの構図として取り上げられるのが「日本と世界という二項対立の図式が間違い」だと言うこと。そしてその日本という国が「天皇がずっと守られてきたという」世界の歴史の中で非常に特異な存在であると言うことである。

そして序章の「『真実の中国史【1840-1949】
』を知る前に」で中国史を考える上での基本を述べている。
これを踏まえて第一章「中国の反植民地化は『アヘン戦争』からではない・1840~1860」という記述になる。

●「中国の歴史感のもやもや」というと、小生も書道家の端くれなので中国史や書道史は多少知っている。
そして、三国志(吉川、宮城谷昌光その他の小説版の何種類か)、史記、十八史略(何種類か)その他の翻訳物で目についたのはほとんど読んでいる。
いずれにせよ、昔学校で習ったときに中国史では漢民族の南宋がモンゴルの元によって滅び、1271年元朝によって完全に征服された。
これで感覚としては、中国(支那)はなくなっていると解釈するのが自然だったのだが不思議と中国王朝になってしまっていた。
正確には、元王朝のそれだけでなくその前に遼(916~1125・契丹人)・金(1115~1234女真族)という満州地域に異民族国家が存在した。
この元では南宋の漢人を皆殺しにし、文化を軒並み破壊したというのは元王朝に関する本に書かれていたように思う。
そして、この元王朝では漢文は分からず、言葉も通じなかったはずだからここで中国は終わっているはずなのである。
実を言えば、この元に迫害されて多くの文化人が日本に亡命したということがあった。
確か漢人の高官が登用されるまで、虐殺と文化破壊が終わらなかったはずであった。

この「真実の中国史【1840-1949】
」の感覚で見れば、元朝以降の中国というのは全く別の国であって中国でない。そして、満州族に征服されていた清朝は従来からの中国ではないことが考えられる。
要するに支那中国というのは、日本のように何千年と延々と続いている国でもないと言うことである。
だから北京オリンピックで何千年という歴史があると言うのは全く嘘だと言うことである。
こういう一国が永遠と続いた歴史ではないという観点を踏まえないと大きな過ちを犯すと言うのがこの「真実の中国史【1840-1949】
」の趣旨でもある。
●だから近代中国の歴史は「日清戦争から始まったという説を取る」と主張する。これは小生も指示する。
小説「阿片戦争」陳 舜臣 (著)1973



阿片戦争(上) 滄海編 (講談社文庫 ち 1-1)
と言うのを昔読んだことがある。
陳 舜臣氏が言うアヘンと、宮脇淳子氏が言う当時のアヘンに関しては時代の違いで宮脇淳子氏が言う説の方が説得力がある。
それは、アヘンが通貨の代わりになり、軍隊もアヘンで給料をもらっていたとある。
そもそも中国では、統一の言葉があったわけではなく漢文が読める人は科挙試験を途中まで受かったような地方の名門の一族ぐらいなもの。
その中に郷紳という人達がいて「科挙試験を途中まで受かったような地方の名門の一族」が地方の小役人になるか、商人になった。
中国では共通の言葉がなかったから、漢字が読めないと商売も出来なかった訳である。
それで明治時代には、漢文の筆談で日本人が支那人と話が出来たと言うのがよく分かる気がする。
●そして、中国の歴史というのは毛沢東が自分に都合が良いように書き直したという事実を明らかにしている。
この本の後半に「張作霖爆殺事件はコミンテルンのでっちあげだ」と言う項目がある。
この件に関して、犯人だと言われている河本大作の現場写真やイギリス公文書館にある「内田五郎奉天総領事の見取り図」から河本大作の橋の脇の爆薬で列車の屋根が吹き飛んだものではないことが書かれている。




謎解き「張作霖爆殺事件」 (PHP新書)
参考

「西尾幹二氏、秦郁彦氏の偽善『歴史家』の素性を看破する」のエントリーではこの部分をこう書いている。
(西尾幹二のブログ論壇
・収録)
なぜなら、河本大作大佐が『張作霖爆殺事件』の犯人であるとは、本人が言っている訳でもなく、そうではないかという憶測だからだ。
この『張作霖爆殺事件』と言うものは、『満洲某重大事件』とか『張霖某事件』とか実際は呼ばれて、昭和40年代前半に何回もNHKで検証ドラマが行われた。
そして、初めはNHKでも張霖某重大事件の首謀者は不明とナレーションがあり、その後には関東軍特務機関の仕業と噂されているになり、最近では河本大作大佐の仕業と言い切っている。
簡単に言えば、東京オリンピック以降とはいえ『張作霖爆殺事件』当時の状況をよく知っている人達が生きているときは従来からの見解を踏襲しているのである。
又、『関東軍特務機関河本大作大佐真犯人説』は東京裁判から後の話である。そして、今現在に至っても真犯人は不明な事件であるはずだ。
それを『河本大作大佐が真犯人』と言い切ってしまうというのは、語るに落ちたとは秦氏のことだろうと言うことがわかる。
そして、この秦氏と言うのは、以下のようなきれい事を言って自己を正当化する偽善者であることが分かる。
『プロの歴史研究者は、史実として認定できないものは全て切り捨てて、取り得えず棚上げにしておきます。』



●この「真実の中国史【1840-1949】
」を読むと、ここで宮脇淳子氏は「昭和史をやっている保阪さんも半藤さんも秦さんもみんなダメだと分かりました。」と書かれている。
小生から見れば、既にこの三人というのはある意味戦後民主主義に毒された人達か、何かしら意図を持って日本の歴史を書き換えている人達であると思っている。
こういう事から見て、「河本大作大佐が真犯人」説というのは明らかに中国が歴史を書き換えた又は、書き換えるように意図をくんだ人達によるものと言うことがよく分かるものである。

●実を言えば宮脇淳子氏と小生syuunは同世代人である。
その意味は歴史教科書というのが日本の独立直後に作られ、学校では1933年以降の歴史はあまり習わなかった。なぜなら日本の大東亜戦争というのはまだ歴史ではなかった。
教師は、戦争に行ってその後将校のパージが解けて、元特攻隊員だったり中国戦線で中隊長をしていたという人が教師になっていた。
父親は、戦争に行った世代であり母親も「満洲某重大事件」はしっかり覚えていたくらいである。
その感覚から見て現在の歴史観は違いすぎる。そして、単純な歴史思考と言うものに違和感を覚えたというところがある。

それでも高校時代の文革が始まった頃、紅衛兵手帳という赤い表紙の赤尾の豆単に似た「毛沢東語録」を紅衛兵なみにかざして「これは凄い」と言った同級生がいた。
当時変人と馬鹿にされた人物だったが、その後本当に○○になってしまった。





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「のぼうの城」の舞台・忍城攻防戦の秘密を探る

1590年・小説「水の城」「のぼうの城」の舞台・忍城攻防戦4

忍城の南、持田口に位置する小宮家の謎


●小宮家の初代は小宮忠昌(源左衛門)と小宮家に伝わる家系図にある。
ここで寛文12年壬子9月3日卒というメモをもらったのだが、寛文12年とは1672年でこれではあまりにも長生き過ぎる。忠昌の妻は慶安2年(1649)の卒と記されているので、寛文ではなく寛永の間違いではないかと思っている。
その一方で二代目の義明(勘右衛門)が寛永元年(1624)卒で、こちらが寛文の間違いでこの二つを入れ替えると整合性がとれる。
そこで初代は小宮忠昌(源左衛門)の卒を寛永12年(1635年)として考える。
いずれにせよ小宮忠昌(源左衛門)、元の名、小宮山忠昌(源左衛門)は家系図から忍城城主成田氏長を主君とする成田氏の家中の人物であることが分かる。

●この小宮山忠昌の父親は誰かというと家系図から小宮山忠孝(弾正介)である。
この小宮山忠孝(弾正介)とは、行田市史・上巻・成田家分限帳にあるとおり、武州足利郡戸塚の戸塚城(小宮山城ともいう・川口市東戸塚)主である。
この小宮山忠孝(弾正介)は元和元年丁巳8月8日卒(法号・宝持院金峯道剛大弾門)と言うことで大阪夏の陣以後に亡くなっている。

この小宮山忠孝(弾正介)は、武州足利郡箕田郷に居住し、忍城主成田氏の旗下として200貫の知行(石高500石)として足立郡戸塚を領地としたとある。

●この小宮山氏によって築城された戸塚城は、小田原城攻めのときは全て忍城へ引き上げ空城になっていたという。
そうであるとすると、小宮山忠孝(弾正介)は旗本として城主成田氏長について行かない限り忍城攻防戦に参加したはずである。
現実問題として、戸塚城の守備隊が豊臣軍との開戦前に城主成田氏長について小田原城籠城戦に参加する可能性は無い。

●そして小宮山忠孝(弾正介)は、戸塚城を築造するにあたりかなりの軍勢を持っていたはずであり、持っていなければ城を築ける分けは無い。
又、なぜ武州へ来たのかと言えば、この小宮山忠孝(弾正介)の父親は、小宮山友晴(内膳正)であるからである。
小宮山友晴(内膳正)は、武田勝頼の「使番十二人衆の一人」の侍大将で武田一門である。
即ち、天正10年に甲州天目山へ永蟄居の身ながら単騎で武田勝頼にはせ参じ、討ち死にした事が知られている。

その際に、内膳正以外の一門をいち早く甲州街道から(織田の勢力範囲以外の)関東へ落ち延びさせ、元々厚誼のあった成田氏を頼ったと言うことである。
この小宮山氏というのは後の武田武士狩りを思えばかなり慧眼であったと言わざる終えない。
武田氏が滅んだあとに甲州では武田系の武士や一門の武田狩りが厳しく行われて根絶やしにされたというのは有名な話。
事実元々新田源氏の系譜のSyuunの一族も、蜘蛛の子を散らすように遠い昔に甲州街道を通って、織田の勢力範囲から逃れ今の埼玉県の山側に避難したことが名字の分布から分かる。
北へ逃げた方は、善光寺あたりで止まった人と富山まで逃げた人というのも同じく氏名分布から分かる。(既に書いたことがある。)

従って、元の甲州に代々住んでいると称する武田一門、武田武士というのは事実上あり得ないと言うのが真相である。
根絶やしにされた武田武士の文物を受け継いだとか、ということが真相であろう。

●「忍城の南、持田口に位置する小宮家の謎」
この小宮家が位置するのは、行田市の「忍城今昔地図」にも載っていない忍城の城外である。正確には忍城のほぼ南に位置し「忍城今昔地図」に丁度書かれていない部分に当たる。
そして、それは持田口の外あたりである。
この小宮家から戦後まもなくまで関東一円を見渡すことが出来たというし、外へ通じる道は小宮家の前しかなかったらしい。
記憶を辿れば、その道幅は東京オリンピック以前までは小型タクシーがやっと通れるような道幅しかなかった。

●この小宮家の母屋が作られる前には敷石から城郭があったらしいと言うことを書いた。
ここでもし、この小宮家が忍城を守るための出城としての役目をしていたら忍城の持田口というのは非常に強固な防衛戦を敷いていたことになる。
石田三成は、持田口を封鎖しないで三方を囲んだ。
この意味は、持田口の防備が特に堅いとみたのではないかと考えられなくもない。
そうであるから、真田軍の突撃隊が攻めてきても跳ね返されたと言うのが真実ではないか。

そしてそういうことが良く分かっていた石田三成というのは、決して城攻めが下手な武将ではないと考えられるものである。

つづく

映画「遠すぎた橋」をもう一度見る・カットシーンを思い起こす



マーケット・ガーデン作戦を描いた映画「遠すぎた橋」(1977年)。この映画というのは実のところ映画館で1回見てその後TVで見た。
原作本「遥かなる橋」は、後編(下巻)だけ買って前編を買おうと思ったら絶版になってしまっていたもの。
その後DVDを見たら随分とカットされていた。
古い映画のうちで1970年から80年代の作品。まだDVDなどが影も形にも無かった時、こう言う戦争映画でVHSビデオになっていたかどうかと言うのは実を言えば全く記憶にない。
どちらかと言えばあまりVHSビデオになっていなかったかも知れない。
いずれにせよ、DVDが出はじめると即座にDVDになったものに「パットン大戦車軍団Patton」(1970/06・1970年アカデミー賞 作品賞他)、「マッシュ MASH」(1970年・カンヌ映画祭「グランプリ」)などがある。

この「パットン大戦車軍団」と「マッシュ」というのは意図的にカットされて、BDになってもその部分は復活していないと言う代物である。
このことは以前述べた。
この二つの映画のうちでカットしてある部分というのが、何かの思想を意味しているのか当時の映画人の劣化を非難したい。
それは、「パットン大戦車軍団」では、パットン将軍の「反共主義」と「反共産主義」が全て削除され、「マッシュ」では朝鮮戦争なのに「韓国人」が出てくるところが全てカットされている。
実際、「マッシュ」では試写を見た淀川長治氏が「映画が長い」との鶴の一声で劇場公開は120分に短縮されたことは以前に述べた。(カット部分不明・多分ゴルフシーンか?)
そして、その120分がDVDでは意味も無く116分にカットされてコメディという意味合いがなくなっている。

その中で2006年に初めてDVDになった「ロスト・コマンド・日本題名・名誉と栄光のためでなく」(1966年129分)という実は結構問題作の映画。これは、残虐シーンだけがカットされているという良心的なものであった。

そしてこの映画「遠すぎた橋」もなぜこんなところをという部分がカットされている。
それで、映画そのものの深みや面白味が半減してたり、映画としての整合性を欠くことになっている。

そのカットシーンはどんなものか

●フレデリック・ブラウニング(Frederick Browning)中将(第1連合空挺軍副司令官/マーケット作戦司令官)
の執務室の冒頭シーン。
ここで実のところブラウニング中将の背景のナレーションがある。

それはどんなものかと言うと、ブラウニング中将というのは奥さんが「ダフネ・デュ・モーリア(Daphne du Maurier)」という作家である
小説「レベッカ」の作者として有名で、アルフレッド・ヒッチコックによって、その他「鳥」などが映画された。(アカデミー賞の作品賞)
又、このモーリアの娘がモンゴメリー子爵夫人(旧姓テッサ・ブラウニング)でグラバー園「旧オルト住宅」に関わりがある。

●無線班の将校部屋で
ここで無線機に関するシーンがある。
カットされたのは、無線機が使えるかどうかをテストしていないというシーンとVHF無線機の水晶の話。
昔というか、つい最近までのVHFという高周波無線機では水晶(Crystal)を用いて、周波数を出していた。ここで本部から届いた水晶の数が足りないと言う話。
それで本部に問い合わせると言うはずなのに、緊張感がなくそのままになった。

このシーンがないために後のアーカート少将との話が良く分からない。

●ブライアン・ホロックス中将(第2軍第30軍団長/ガーデン作戦司令官)の作戦会議での話の前段ほとんどカット。
ホロックス中将は、地上軍の作戦会議前段で正に漫談ではないかと思わせるような戦意高揚の演説をする。(カット)
そして、その後に「Operation Market Garden」を述べ始める。

●空挺部隊は、輸送機と輸送用の大型グライダーを使う。
このシーンで大型グライダーは、現存するものがなくて新たに作ったという代物。
ここで対空砲火で輸送機やグライダーが撃墜されるシーンはカット。
グライダーが目的地に無事に着地するシーンは一つだけで、墜落シーンやグライダーからジープを出すシーンはなし。
その他、グライダーのシーン多数。
(ドイツ軍の探索シーンは部分ののみ)

●その他細かいところで冒頭のオランダでのシーン。
撤退するドイツ軍の車両が写されていないとか、その他不自然なシーン多数。

見出すと、切りがなくなるものでこう言うシーンカットというのはどう言うものだろうか。

今回は、ブルーレイの「遠すぎた橋」を買って見た。
しかしリマスター版ではないので、色、色彩はDVDと変わりがなくパソコンで見ると多少明るくなった感がある。

違いは、音が良くなったのどDVDにありがちなノイズが減ったこと。
字幕の位置文字が多少違ったことなどである。

今古い映画では、劇場公開ノーカット完全版を見ることが出来ないと言うのは悲しむべきである。
BDになっても、精々DVDの焼き直しというのはこういうディスクが売れなくなる原因ではなかろうか。




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