映画、書評など

影法師 百田尚樹 (著)の読み始め・時代考証無視?

最近時代劇映画が流行って、多少時代劇の小説でも読んでみようかと思ったのがこの小説。‥‥と種々調べてみると 藤沢周平の「風の果て」のパクリ本、リメイク版との書評もある。
そこで少し読んで行くと妙な部分が出て来る。
江戸時代に北陸の小さな茅島藩8万石ということなのだが、上士に出合うと下士は草履を脱いで土下座するという風習だという。
それで、主人公に関わりのある人物が槍で殺されてしまうのだが、これは悪い冗談だろう。江戸時代に参勤交代の行列にあっても、町民は道を空けることはあっても土下座などはしない。「下に~、下に~」と言って参勤交代に出たのは御三家だけだし、江戸中期以降はそれもしなくなった。
そして例え上士だとしても、下士を含めた武士にたいして刀を抜いたら、切腹を覚悟しなければならないのが江戸時代の話。
そういう風にしなければ、たかが8万石の小藩は持ちこたえられぬはずがない。
そして、そんな風習があれば間違いなくお取りつぶしになる。
しかし、作者はなぜ8万石という中途半端なものにしたのかよく分からない。江戸時代の藩というのは、石数によって大きな区別があった。
それこそ、駕籠に乗れるかどうかから、駕籠の装飾、江戸城のどこまで駕籠で行けるかなど。その区切りはまず5万石。次は10万石、15万石と格式が上がって行く。
そういう区別から言えば、8万石というのは10万石に満たないために妙に背伸びしたがるような藩があったことがある。
さて、相手に刀を抜かれて斬り殺された方は、刀の柄に手を置いて抜くそぶりで殺されていなければお家断絶もあり得た。そして刀を抜いた方は、理由を問わず切腹というのが常識。
そういう時代考証から言うと、小説冒頭から疑問符が付いた小説である。
しかも、下士だったものが城代家老まで大出世するというのだから、少し読んだだけで益々おかしい。
なぜなら、下士というのはどんなに優秀で出世しても「与力」止まり。
要するに、奉行所の次官までである。
それならば、下士が上士に入り婿でなれるのかと言うと、まず難しい。
それは、藩長の許可が降りないためである。
養子、縁組みというのは、基本的に格が同格でなければ許可されなかったから格違いというものはあり得ない。
こんな感じでの時代考証無視の小説、この先が読めるのかと心配になっている。
元の 藤沢周平の「風の果て」‥‥、こういう「昔は机を並べていたのに」晩年になったら、月とすっぽんになっていたという小説は結構山とある。
渡辺淳一の直木賞受賞作「光と影」では、西南戦争の田原坂の激戦の後、病院で同じ負傷を負った将校の対比を描く。
その一方は寺内寿三郎(正毅)、後の日清日露戦争時代の陸軍大臣・大将、総理大臣。
こういう小説なら結構種にはつきないと言うものかも知れない。


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「世の中意外に科学的」櫻井よしこ著の妙な部分

以前のエントリーの「日中韓 歴史大論争」で櫻井よしこ氏が妙なことを言っていた。それでその元になる本を手に入れてどんな表現をしているのか検証してみた。
その部分というのは、「世の中意外に科学的」第3章「人間の科学、そのミクロとマクロ」第一節「本当の病気の日本病」p113である。
ここでこんな表現がある。
「日本で最も多いリンパ球の型は、モンゴル共和国の南部の人々の型と共通である。日本で二番目に多い型は、韓国で一番多い型と共通である。つまり、私たちの祖先がモンゴル人であり、韓国人であることだ。となれば私たち‥‥中略‥‥歴史問題で謝罪せよと迫ってくる韓国人の人々への想いもやわらいでいく。‥‥‥‥私たち日本人は、本家というより分家のような立場なのだもの、本家への感謝は忘れてはならないのだ。」
ここで、いわゆる戦後の自虐史観というべき事柄があの櫻井よしこ氏にして染みついているというのは、どういうことなのか不思議なものなのである。
もし、日本人のルーツに韓国人、朝鮮人が入るとすれば白村江の戦いなどが説明できまい。日本へ文化が入ってきたのは、朝鮮半島を経由した陸路ではなく中国から直接の海路だったことは歴史を見てみればはっきり分かる。
‥‥というより戦後の自虐史観に毒されていなかった頃にはそう教わった。
事実として、日本の文化にあって朝鮮の李朝にはないと言うものなどは、朝鮮半島には染料がなかったことから見て朝鮮半島経由というのは嘘であることが明白だろう。
詳しくは、「日韓がタブーにする半島の歴史」などに譲る。

この「本当の病気の日本病」という部分を読むと何やら妙に引っかかるところが散逸する。それは、日本人が単一民族であると述べている部分で、確かに縄文人や弥生人は特殊であったろう。そして渡来人が「7世紀頃までの1,000年間に、数十万から100万人規模」にのぼっていたはずという。(佐々木高明著・「日本の歴史 1 日本史誕生」)
この7世紀というのが例の大化の改新、白村江の戦い(663)。
実は、8世紀以降も渡来人が続々と日本ら訪れている証拠がある。
それは多胡碑である。
その碑文には、和銅4年3月9日(711年)に多胡郡が設置され、通称「羊」と呼ばれた種族に土地を与えている。
現代語訳(ウィキペディア)
弁官局からの命令である。上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新しい郡を作り、羊に支配を任せる。郡の名前は多胡郡とせよ。これは和銅4年3月9日甲寅に宣べられた。左中弁・正五位下多治比真人。

太政官・二品穂積親王、左太臣・正二位石上尊、右太臣・正二位藤原尊。」
この「羊」というのは中国の東南部に住んでいた「羌族」の別名で、遠くは太公望を祖とした。
簡単に言えば、日本の藤原系の大本の種族といえば分かりやすい。
日本では、関西系と関東系で明らかに違う。
そんな違うのに日本を単一民族というのは妙なものだと思うものである。
12世紀、源頼義の奥州赴任(1051年)頃までに藤原勢力が元々の蝦夷征討を完了する。
今人々の体型を見ても、源氏、平家系の藤原系と元々の関東武士の末裔とは大いに違う。こんな部分は結構 「世の中意外に科学的」でなかったりするものだ。



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「歴史ドラマの大ウソ」大野敏明著、他「歴史ドラマと時代考証」を読む


この著書は「産経エクスプレス」に連載した記事が基礎になっているから、ある部分は読んだことがある記憶がある。
第1章は「NHK大河の嘘八百」で例の「龍馬伝」から始まっている。
福山雅治氏が演じる坂本龍馬がやけに「ニコニコ、ニヤニヤ、明るく元気」ということに驚かされると書き始めている。
武士は、「笑わない、泣かない」そして常に敵に対して用心を怠らないということが述べられている。「敵に対して用心を怠らない」というのは、米国の西部劇で見たガンマンの話の様なものである。
名前の知れた有名なガンマンは、椅子に座るときは壁を背にして座る。なぜなら後ろからいきなり撃たれないためと紹介されていた。事実有名なガンマンは後ろから撃たれて亡くなっているという。
それと同じように、武士は太平の世になればなるほどそう言う「平素の用心」という心遣いが重視されたという。
今の世の中を見ても「ニコニコ、ニヤニヤ、明るく元気」という性格を現す人物などいるわけはない。いるとすれば大方仕事の出来ない「カス」みたいに感じるだろう。
しかし、歌手という分野の人はどうも平素「ニコニコ、ニヤニヤ、明るく元気」というスタイルが身についているようだ。
その昔、歌手の河島英五が売れていなかった頃に大学祭のコンサートに来たことがあった。
そのコンサートは聴きに行かなかったがコンサートが始まる前、誰もいないところの河島英五が妙に「ニコニコ、ニヤニヤ、明るく元気」だったことが今でも目に焼き付いている。
だから、福山雅治の坂本龍馬というのはやはりミスキャストと言う事になる。
坂本龍馬は当時の水準で見なくとも、相当な教養人のお坊ちゃまである。そんじょそこらのチョイと器用で演技が出来る俳優とは訳が違う。
NHKでは「竜馬がゆく」の坂本龍馬がある。
やはり坂本龍馬を演じられる役者というのはそうはいまいと言うことだろう。
又、武士なら酒を飲んでいるときは危険なので衝立を立てて見えない様にするというのが基本だそうだ。
そう言われてみれば、昔のモノクロ時代時代劇というのは、妙に不気味な部分があった。女性は、女房となればお歯黒をして眉を擦り落とす。この顔というのは、結構不気味なのである。
しかし、このお歯黒というのはその昔では「高貴な身分(侍大将くらい)」だと武士でもお歯黒をしたという。(歴史ドラマと時代考証)
それで、戦国時代敵方の首を天守閣の集めて、女性達が首にお歯黒をさせいてたと言うから驚きである。要するに、身分の高い人物の首というわけである。
そして、「歴史ドラマの大ウソ」で常々述べているのは「上司を『名前』で呼ばない」ということである。
龍馬が言う言葉では、千葉道場を去るに当たって「定吉先生」、「重太郎先生」。これは現代でもこういうふうには言わない。「大先生」、「若先生」というという。
NHK「竜馬がゆく」では「大先生」、「若先生」のくちだったと記憶する。
脚本家がわざと「くだけた感じ」を演出したのだろうが、現代でも使わない言い回しを使うと言うのも妙なものだ。
NHKの「坂の上の雲」でも非常に現実味(げんじつみ)のないシーンが多くて、製作者の無神経なのか常識で考えても変な部分が多かった。
まずは「騎馬通学はNG」
ここで単なる騎兵中尉にすぎない秋山好古が「民間人の馬丁」付きで登場のシーン。
こんなシーンは小説にはあるはずもなくNHKの創作。
文面では、「乗馬本分」で決められていて、原則として少佐以上という。(勤務中の騎兵は別)
そう言えば、昔NHKの朝の番組で乗馬で現れた主人公がいたが大佐の階級だった。
その他、小生も一目見ておかしい思った元旗本「佐久間氏の屋敷の立派さ」。この点も同じように思ったらしい。詳しく分析している。
その他、海軍兵学校生徒の秋山真之が制服姿で短剣を吊っていないと指摘している。言われてみれば、昔の特攻隊の映画では間違いなく短剣を吊っていた。
その他おかしいのやはり東郷平八郎との邂逅(かいこう)。
呼びかけるのが「少将」である。
これもおかしいし、あり得ないと思ったら「閣下」が正しい。その他、子規が従軍したときの軍の徴用シーンもやはりおかしいし、軍艦の上で炒り豆の殻を甲板に投げ捨てるなど常識では考えられない部分。
広瀬武夫が裸で写真を撮るシーンも「ふんどし」ではなく「ブリーフ」だったとなんと証拠写真まで掲載している。
こんな風にNHKの「坂の上の雲」では、歴史常識から見ても突っ込みどころがある。
そして、そう言う突っ込みどころというのがことごとく小説には描かれていない部分である。
NHKの製作者は何を考えているか、意図的なのかと勘ぐりたくなる部分も多い。
一方、「歴史ドラマと時代考証」(小和田哲夫著)の方は、NHKの時代考証をしたときの裏話で、「秀吉」、「功名が辻」、「天地人」。
「歴史ドラマの大ウソ」でもこの「天地人」は取りあげられて、架空の人物「初音」の設定がかなり出鱈目と書かれているのだが、「歴史ドラマと時代考証」では一切書かれていないのは妙な話である。
実際の時代考証をした人が、人に指摘されるまでの失敗の話しを書かないのはどうせ何かの理由があるのだろう。
近年の「天地人」の文字から「龍馬伝」の文字まで品のない題字というのは、やはりその物語の質を現して真実やその中身を検証しない所作の表れだろう。


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歴史ドラマと時代考証 (中経の文庫)

歴史ドラマの大ウソ

その2映画ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1を見ての感想


映画ハリー・ポッターと死の秘宝パート1。これは小説のダイジェスト版の様な感じだと書いたのだが、小説から逸脱してしまっている部分も多い。
従って、映画を見る前にもう一度小説をお復習(おさら)いしておかないと「何だったけ」と展開が分からなくなるかも知れない。
たとえば第16章のGodric's Hollow(ゴドリックの谷)では、ハリーとハーマイオニーはマグルの夫婦に変身し、雪についた足跡さえ消して用心する。小説でも少しおどろおどろしい夜のシーン。ところがここで映画では変身させない。
しかし、変身させないと物語の辻褄が逢わない部分が出てくる。
ここで変身させなかったのは、どうしても変身させなければならなかった魔法省への潜入シーンのためだろう。
そこでは余りに早く簡単に進行しすぎた上に、変身してハリーとハーマイオニーとロンではなかったために物語が余計分かりにくくなったという結果が生じた。
丁寧に描写すれば問題はなかった様だが、こうも早く詳細を抜かれるとやはり分かりにくい。
後半の部分でも説明不足が顕著だから、前半の静の部分の文脈が大幅カットは余計に良く分からない展開になった。
テント生活でロンがラジオ放送を聞くシーンがある。
小説を読んでいればデスイーターに乗っ取られた魔法省に対するレジスタンスが結成されたことが分かる。
映画では、単純にこの説明がないからさっぱり分からない。
第21章 The Tail of the Three Brothersの部分では、映画では物語をアニメで示してこれは結構分かりやすい。
原書だとこの部分である。
以前エントリーで述べた様に‥‥
(英国版原書p331)
So the oldest brother who was a combative man,asked for a wand more powerful than any in existence: a wand that must always win duels for its owner,a wand worthy of a wizard who had conquered Death!So Death crossed to an elder tree on the banks of the river fashioned a wand from a branch that hung there,and gave it to the oldest brother.  ‥‥‥‥
分かりやすくするために、なるべく直訳で訳してみると‥‥‥
「それで、闘争的であった一番上の兄は、存在するどんな魔法の杖よりもいっそうパワフルな魔法の杖を求めた。
常に、その所有者のために決闘で勝たなくてはならない魔法の杖。
「死神」を征服した魔法使いにふさわしい魔法の杖!
それで、「死神」は川の土手のニワトコの木に行って、そこに下がっていた枝から魔法の杖を作って、最年長の兄に与えた。」


静山社の訳では相変わらず「Death」を「死」と訳していたが、やはり映画通り「死神」が正しい。


それにしてもジニー(ロンの妹)の部屋で、ジニーとハリーのラブシーンは映画では入れて欲しかった。
言葉だけでシーンが小説にないハーマイオニーとその両親との別れは映像で映されていた一方、ハリーの別れというのがない。
こういう伏線がないと絶望と不安の元、放浪するその後の展開が伝わってこない。


パート2では実際どこから始まるのか、簡単に第25章 Shell Cottage(シェル コッテージ)で説明して一挙に第26章Gringottsに進むしかないだろう。
何やら先が見えてきたような感じだが、又パート2が2時間10程度だったら映画は見るだろうが、大して期待出来そうもないと言うものである。



ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1を見ての感想1


ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1、今日が初日だったのと偶然今日が会員カード感謝デーと重なったので早速見てみた。
2時間26分という話なのだが、時計を見ながら大凡の計算では実2時間10分程度であった。
最後のエンドロールが長くて、そのエンドロールが終わってから何か別の映像が出て来たと言う初期のハリー・ポッターものとは違い、前回と同じ最近の監督はそんな粋なことはしていない。
だからエンドロールが始まったらそのまま出て来ても何の影響もない。
しかし、実際の劇場映像と予め言われていた映像が10分以上違うと言うのは、試写会の段階からカットされた部分があるのかも知れない。
事実昭和45年公開のカンヌグランプリ受賞の「MASH」は、試写会映像から10~15分カットされた。(淀川長治氏の長いという指摘?‥なぜか嫌悪していた。)
このハリー・ポッターと死の秘宝Halley potter and the deathly hallows は、元々原書(英国版)で読んでいるので、日本語版の翻訳のいい加減さには、ほとほとあきれる。
その日本語版の誤訳が映像で証明されてしまうと言うのも何とも不思議なものである。
今回のパートIの物語は、初めから第25章 Shell Cottage(シェル コッテージ)まで。
日本語版では「貝殻の家」と訳されているが、映像では海辺に建つ薄汚れた様な建物が見えるだけ。
「シネマビュー」では「今回も細部まで作り込まれた映像と軽快なテンポ、あっと驚く魔法の描写で楽しめる。」と好意的に書かれている。
ところが、小説を読んでないとさっぱり分からないというのが真実だろう。
だから、小説で読んだ部分を映像で確認するという具合になる。
そう言う具合に、詳細の説明を映像でしないばかりでなく、逆に小説でわざわざ書かれている説明部分を省き、しかも微妙な部分がはっきりと描かれていない。今後の展開としては重要な部分であるはずなのに妙な事である。
そして、7人のハリー・ポッターで本来壮絶な「死喰い人」との戦いも、簡単に終わってしまうので拍子抜けというかダイジェスト版の様な感じがある。
当然、7人のハリー・ポッターでdeatheaterと戦いの部分、これは大幅に違っている。
何と言っても本物のハリー・ポッターであると見分けられる部分が全然違っている。
そう言う原作と違う部分というのは、第一章「The Dark Lord Ascending」日本語版「闇の帝王動く」のルシウスの大豪邸(handsome manor house)から始まるはずが、バーノンおじさんの引っ越しシーンのダイジェスト(第3章ダーズリーの出発)から。
ここで幾分感動的なシーンがあるはずなのに、全てなし。
そんな風に余りに違いすぎて非常に分かりにくい。
違う部分、そのルシウスの大豪邸(城に近い)に到着の時、強力・有力な「死喰い人」イェックスレイとセルブス・スネープが出会うこれがない。
この説明がないと、魔法省に潜入したときのイェックスレイの怖さが分からない。
ついでに言うと、逆さ吊りされているチャリティ・バーベッジ教授を殺すのはスネープであって、映画の様に闇の帝王ではない。
その他、前半ほとんど抜けているシーンばかりなのだが、「第7章The Will of Albus Dumbledore」(アルバス・ダンブルドアの遺言)は、詰問が抜けているから妙な部分になった。
そして、前半の重要ポイントの「ハリーとジニーのラブシーン」が別な形に展開されてほとんどないというのは解せない。
そればかりかハリーの誕生日パーティがないから「Trace」が切れたのかどうかが台詞でしか確認出来ないというのは感心しない。


少なくとも確実に2時間30分くらいにしてもう少し説明画像を入れないと単なる小説のダイジェストと言うことになって、少しも面白くない。
前作、前々作も小説を読んでいないと分かり難いつまみ食いだったが、今度も同じようになった。



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