映画「のぼうの城」・時代考証無視だが面白い



---映画の内容に触れています---


映画「のぼうの城」を見たのだが、「城への水攻めシーンが東日本大震災の津波を連想させる」というのは本当だった。
この時点で時代考証無視になっているのではないかと危惧した冒頭部分だった。
本来の水攻めは、手に負えないほどの強力な軍隊を持つ城側の兵糧を絶つことで味方の損害を減らす攻略法である。
その一方で川から水を引き込むから徐々に水かさが増す。ダムの水が決壊するような映画のシーンにならないはずである。
どうでも良いことながら豊臣秀吉が小田原の温泉に入ると、美女が白絹(?)を羽織って温泉に入っている。江戸時代まで日本の銭湯は混浴だったはずで、妙なものであると同じに必要ないものだった。

この映画での戦闘シーンとなるとある意味「メチャクチャ」である。寄せ手の石田三成側の鉄砲の弾は城側の突撃隊の当たらず、突撃隊の鉄砲は百発百中。
何十人もの足軽と一人の侍大将の力自慢で、一人の方が勝つ。
もう少し現実の忍城の戦闘は壮絶なところがあったはずである。

映画では石田三成役を上地雄輔が演じている。この石田三成、どう見ても秀才型の人物には見えない。
そういう配役を考えれば、甲斐姫役の榮倉奈々は言葉遣いが現代風だったり、軍議を立ち聞きしたりである。そして当時の水準から見れば、和服より洋服が似合うタイプで「美女」としては不釣り合いだった。

戦国時代末期、当時の忍城攻防戦も小田原城攻めも情報戦と言われていた。
そして、小田原城籠城戦では、豊臣(太閤)側に内通する大名は当たり前だったし、見栄の張り合いであったという。
既に天下は豊臣秀吉の下に帰し、その情勢が読めなかった小田原城の北条氏には落城後に厳しい処置を施した。
その一方で、無駄な戦闘を廃すると共に、柳が風になびくように北条方の諸城は簡単に落城した。
その中で籠城戦を戦ったのが北条一門の八王子城とこの忍城である。
八王子城は、忍者部隊(今で言うコマンド部隊)である真田昌幸率いる真田軍の奇襲よって落城して悲劇的な最後を迎えたのは史実が示すとおり。

それを最後まで落城せず持ちこたえたというので、「武士の名誉」が大いに称えられたのがこの忍城攻防戦である。
従って、この戦いに参加した武田の遺臣は徳川家への仕官が叶ったし、関東の田舎娘である甲斐姫もその武勇にちなんで秀吉の側室という名誉を与えられた。



映画では、「のぼう様」こと成田長親が武士の仕官の斡旋をしたと最後の紹介で述べている。

しかし、そういうことは実際にはなく忍城が徳川家康に引き渡されたとき、家康の検分によって武田式の築城術と馬返しなどの防備を絶賛した事による。

それだけでなく成田長親は、忍城攻防戦に絡んで主君成田氏長により追放される。
成田家家中では、忍城攻防戦の後に家禄が減らされたと共に、主力部隊が新参者の武田遺臣によって戦われたためにこの戦いの主力の武将はいなかったことにして放逐された。



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映画では、長野口とかの攻防戦がある。しかし、元々籠城戦になれば水攻めという指示が秀吉から出ていたという話がある。
従って、実際の戦闘というのは余り行われず、水攻めの籠城戦とは出口を封鎖しているというものだった。
それは攻め手の石田側も忍城の内情には詳しかったはずで容易に落とせないであろうし、簡単に落城しないと読んでいたに違いない。
何度も言うように情報戦のこの頃、そうでなければ当時の城攻めなど出来る筈もなく、秀吉ほどの人物が間違うはずもない。

行田市が配布している「忍城今昔地図」に描かれていない持田口の攻防戦。
ここに武田式の出城(遺構らしきものが出土)があり、八王子城落城後(5万の軍勢になって拡大)真田軍はその余勢かって持田口を力攻めにする。
ここで、持田口を守る出城守備隊の鉄砲などによる十字砲火で壊滅的な打撃を受けて撤退したのが真田信繁(幸村)の真田軍先鋒隊。
これが後の大坂冬の陣の武田式築城術を駆使した真田丸になる。

実を言えばここまで映画で描ければもっと面白かったのにと思うのだが。

尚、忍城攻防戦で守備隊総指揮官だったのが戸田城城主・小宮山弾正介忠孝。
(大阪夏の陣以降まで生存・元和元年丁巳8月8日卒・法号・宝持院金峯道剛大弾門)

映画では、成田家家老・酒巻靱負(成宮寛貴・配役)の戦闘参謀兼実戦司令官が小宮山(小宮)源左衛門忠昌であるというのは以前述べたとおり。





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