Syuun の不思議な少年時代 その33

【昭和39年、1964年春 その3】


中学生生活が始まる。学校には生徒があふれかえって雑然としている。
1年生は1階、2年生は2階、3年生は3階と言うことになっていて、鉄筋校舎とはいうものの1年10組は北側の西隅(3クラス)だった。
1組から8組までは少し離れた木造二階建ての西校舎で日当たりは良かったが、非常にレトロの雰囲気が強かった。
実はその木造校舎が使われたのは、この年が最後である。

ベビーブーマーの世代直下というのは、何やら重苦しい雰囲気に包まれた世代であった。
考えてみれば今でも「ぞっとする」不安な毎日なのである。
それは中学に入った途端に高校進学という文字が片時も頭から離れたことがない。
その重圧を常に感じる毎日というのは今では想像もつかない。
今の親は、中学生の子どもに勉強を教えるということは程度の差こそあれさほど難しくは無い。しかし、当時の親は大正生まれの親である。
父親や母親は戦前の教育を受けた人たちで、小学校低学年なら兎も角中学の勉強を教えられるはずもない時代でもあった。
しかも当時は勉強のための参考書というのは少なく、その上に今のように進学塾が氾濫してもいない。
だから高校教師がアルバイトで塾をやっていることが多かった。

そんなスタートの中学生生活の4月は、平穏無事と言うより嵐の前の静けさというのが正しかった。
東京オリンピックと言うのもまだ視野に入っていない。
そういえば秋には東京オリンビックがあるという程度のものである。

この頃、4人家族の我が家は4人家族として成りたって以来最高に充実した時であった。充実したと言うよりもう一つの未来が開けたということである。
その一つは兄が北海道大学に進学したこと。もう一つは父が病気から立ち直ったことであった。
この二年前には父は、胃の痛みが激しく吐血もしていたのだが胃潰瘍らしいことが分かり手術した。今なら胃潰瘍などは早期に発見されて大した事にはならないことが多い。しかし、その昔は今では毎年の検診で胃カメラを飲むと言うことも普通に行われた分けではない。
実を言えば小生だけが何やら蚊帳の外にいた。

新中学生となった身では前述のように何とかして普通高校に紛れ込めないかと思案していたのが真実である。

新中学生の最初のスタートダッシュ。
今の子ども達も全く同じで、この時期から如何にスタートダッシュを切れるかで中学3年間の大半が決まる。
転換期があるとすれば、二年になるときの組替えのチャンスの1回しかないというのも何となく分かっていた。しかし、何をして良いのかが分からないというのが本当である。

中学を卒業して高校の教科書を買ったとき、多少予習でもするかと思って英語の教科書を見て驚いた。
教科書の最初の一行からして全く刃が立たない。
夏休みにはヘミングウェイのFor Whom the Bell Tolls原書(誰がために鐘は鳴る)が課題だったり、トルストイの「人は何で生きるか」What Men Live Byの英語版だったりする。
小説は何とかなるが、英語の教科書は大学に入ってから読んだ専門書の何倍も難しいというのは今で思えば無意味な教科書だった気がする。

小学生から中学1年になる時は、高校に進学する時ほど急に難しくは無いもののその変化に慣れるのには時間がかかるものである。

今は東大生が使う勉強ノートというようなものが売りに出されたり、「東大合格生のノートはかならず美しい」という本まである。

その昔もサブノートを作ると良いとして、ほとんど書かれているサブノートが売りに出されていた。しかし、そういうノートは中学校のレベルのことしか書かれていないから無駄の一言に尽きた。

そのスタートダッシュの4月というものは、何となく過ぎてしまった。
その昔は、部活は何でも良かったから「卓球部」に入った。
入ったと言っても顧問の英語の先生に入りたいと言っただけで何の案内もなかった。
その後に◯年◯組の教室が練習部屋になっていると言うのを知って、そこに行く事になった。1年生はラケットのフォームと基礎体力練習。ほとんど卓球台に向かう事も無く何か止めてしまった。
テニス部も大量に入るが、1年生は延々と球拾いでほとんど止めるのだそうな。
生徒が多かった時代の面白い現象であった。

そんなわけで早々と卓球部は幽霊部員になりその後止めてしまった。
それで何か咎められるという時代でもなく、内申書が悪くなると言う事も無かった。
そもそも高校受験に内申書は一切関係が無い一発勝負だった。

連休に家庭訪問がある。
小学校の時代には、家庭訪問の時にはわざと家にいないようにしていた。
しかし、中学では家にいる必要があるのだとかで待っていた。











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