それでも、日本人は「戦争」を選んだ・加藤陽子著‥を読む2


第1・2章日清戦争・日露戦争
ここの項目では、実際の日清戦争というものの背景に迫ると言うことはあまりしていない。言い換えれば賄賂に入ってしまって出口が見えない論考である。
ここで生徒に質問を投げかける。
「民権派や福沢(諭吉)が、日清戦争に双手をあげて賛成しているのを見ると、少し変な気分がしませんか。」
生徒‥‥「別に変とは思わない。当時の人々に、戦争『反対する』、『反対できる』なんて気持ちはなかったのでは‥‥。」
ということにたいして「民党=反政府=戦争反対、というような図式は、あまり頭に浮かばなかったですね。」ということをわざと書いている。
そして妙だと思うのは「日清戦争というものは帝国主義戦争の代理戦争だというところでは、不可避だったと思います。」と述べる。
それならどこの国の代理戦争かというと、日本はイギリス、清国はロシアだという。
同じ様に日露戦争も「日清戦争は帝国主義時代の代理戦争でしたが、日露戦争もやはり代理戦争です。」と妙な論には首をかしげざる終えない。
その日露戦争はどこの国の代理戦争かというと
「ロシアに財政的援助を与えるのがドイツ・フランス、日本に財政的援助を与えるのがイギリス・アメリカです。」と書いている。
こういう風に、日清、日露戦争の意義を歪曲して日本を卑下するというのは「やはり」という部分である。
日清戦争がイギリス、ロシアの代理戦争などと考えても妙な話だが、日露戦争がドイツ・フランス/イギリス・アメリカの代理戦争だとしたらポーツマス条約が成り立たない。
ロシアにドイツが支援していたというのは知らなかったし、第一次大戦の前哨戦と言える1914年のタンネンベルクの殲滅戦で半数のドイツ軍がロシア軍を破るという史実を見れば信じられない。
そして、フランスは元々ロシア貴族がフランス語を話すという関係からか、フランスで多く公債が売れということでフランスが直接支援したわけではない。
又、米国が支援したと書くものの、米国はロシア、日本の戦艦を共に作っていたし、ユダヤ人銀行家のシフと米国政府とは直接関係がない。
その他、日露戦争に関しては、スヴェーチン(日露戦争史は、1990年代になって解禁されたアレクサンドル・スヴェーチンという軍事思想家の日露戦争論「最初の段階にある20世紀の戦略」【(1937)、1938年処刑による封印。】)という貴族の著書を紹介している。このスターリンによって粛清されてしまった元将校の著書は、ソ連崩壊と共に表にで出来たと思うものの大した目新しさはない。
そのスヴェーチンの著書から「なにが新しい戦争だったのか」というのを「陸軍と海軍の共同作戦」としているものの乃木大将は、海軍の言い分をことごとく退けているはず。
そして、その理由としての例として出している秋山真之の手紙も事実は全く無視しているから「陸軍と海軍の共同作戦」と言うものも無理がある。
昔から、海軍と陸軍とは仲が悪いと言うのは定説である。それで海兵隊という海軍の陸兵というのが存在する。
日清戦争というところに戻ると下関条約についての論考がある。
ここで著者はどうも下関条約に関する意味が読み込めていないのではないかと思われる。「条約の第一条に書かれた言葉は『清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す』だったわけです。‥‥中略‥‥なんだか不思議な感じのする文章です。」
朝鮮というのは独立国になったことがない国であり、中国に朝貢するにも奴隷くらいしか無かった国。そういう半島国家という国をまともに独立させて、ロシアなどの驚異から防ぐことぐらいは考えつきそうなものだ。
そして重要ポイントの「北清事変」例の義和団事件を簡単に飛ばしてしまうどころか日本が出で来ない。
この部分だけを見ると「北清事変」を鎮圧したのがロシアであると思えてしまうほどなのは奇妙である。
その部分は「ロシアは中国の首都である北京にもたくさん兵を出していました。ロシアは、列国の連合軍(日本も参加していました)が義和団を鎮圧するまで、自分の権益を守るためだよ、ということを理由に軍隊を出すのです。」
史実は、派遣を渋っていた主力部隊は日本軍の「日本軍は陸軍大臣桂太郎の命の下、第五師団(およそ8000名)を派兵し、その指揮は福島安正に委ねられた。(Wikipe)」であった。しかも各国軍隊は略奪をしながら進撃したために進みが遅く、一番後から投入された日本軍が一番早く到着すると言う次第。ロシア軍は略奪に忙しく間に合わなかったはずである。
そして、その規律が厳正な日本軍を見てイギリスとの日英同盟と繋がる。
ところがそう言うことは一切書いていない。
そして日露戦争の部分では「山師の」ベゾブラーゾフの話しが出てくる。
これを以前のエントリーから再掲してみると、「1903年7月1日から10日まで『旅順会議』と言うものがツァーリ、アレクセーエフ提督(関東州長官)、クロパトキン、ベゾブラゾフその他の実力者を一堂に集めて極東政策を協議させた。この会議で、クロパトキン(陸軍大臣)は『満州と遼東半島の権益を守ることに優先させる』と言う事で一致し、強く戦争を支持したベゾブラゾフは事実上失脚するのである。」要するに、ベゾブラーゾフは日露戦争とは関係がない。
そして、日露戦争というのは「ロシアは満州には一切手を触れさせないで後には併合し、韓国も後にはその一部とするという意図」が一貫している。
国際政治学では「セキュリティ・ジレンマ」という専門用語があるという。
これによれば、日本がロシアに戦争を仕掛けるというのは当然という解釈と言うことが成り立つ。


この後の論考は止めよう。
なぜならこの様な本を読んでも意味がないからでもある。



それでも、日本人は「戦争」を選んだ・加藤陽子著を読む1


この本を読んで「いゃーな」気持ちになるか、ならないかで自身の「戦後民主主義・毒され度」というのが測れる本だとは気がつかなかった。
全部をひとくくりにして見れば、小中学性の歴史参考書の自虐史観を詳しく慇懃に述べたと言うことに近い。従って、「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」という題とはほど遠い筋道であるのみならず、日清戦争から始まる負の部分のみを強調する。
その負の部分を強調するために、なぜ「日本は戦争を選ばざる終えなかったのか」という主題から横道にそれて、ゴミ箱を漁(あさ)るような論考はどう考えても納得出来ない部分が多い。
特に4章「満州事変と日中戦争」以降の戦時体制下になると顕著になる上に、筋道から必要でもない細かな事象や妙なキーワードからこの著者の政治的立ち位置(スタンス)というものが垣間見られる。
例えば「共産党が公然と活動を開始したことに対し危機感を強めた田中内閣が検挙を断行する。つまり、戦争に反対する勢力が治安維持法違反と言うことで、すべて監獄に入れられてしまったことですね。‥‥中略‥‥共産党の大検挙が行われている(検挙者1500人のうち461人起訴)。もう根こそぎ検挙という感じであります。」
この部分だけ見ても、共産党=平和勢力という妙な言い回しであることが分かる。
その他キーワードは「地主」、「資本家」、「ルソー」そして、「南原繁」という人物まで持ち出してしまう。
この「南原繁」に関して必要もない「短歌」を紹介しているだが、「南原繁」とは戦後に排除された人達の代わって東大総長になる人物。
あの吉田茂首相が「これは国際問題を知らぬ曲学阿世の徒、学者の空論に過ぎない」と言わしめた全面講和を主張した人物である。
この南原繁氏を崇拝しているような人物が解説する歴史にバイアスがかからない筈はない。
そう言う歴史の解説であるから、序章で「日本国憲法」肯定論が出て来してまう。
表題「なにが日本国憲法をつくったか」
「日本国憲法と言えば、GHQがつくったものだ、押しつけ憲法だとの議論がすぐに出できますが、そういうことはむしろ本筋ではない。ここで見ておくべき構造は、リンカーンのゲティスバーグでの演説と同じです。」
‥‥と言うことで(不要と言われる)憲法の前文の「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって‥‥」を引用している。
表題「戦争相手国の憲法を変える」
「日本国憲法というものは、別に、アメリカが理想主義に燃えていたからつくってしまったというレベルではない。結局、どの国が勝利者としてやってきても、第二次大戦の後には、勝利した国が敗れた国の憲法を書きかえるという事態が起こったろうと思われるのです。」
「戦争相手国の憲法を変える」というのは確か国際法違反で、MacArthurも自伝から日本国憲法を作ったことを書かなかったくらいである。
いずれにせよ、著者は日本国憲法という占領政策として一週間でつくられた憲法を「理想主義に燃えていた」と言い切ってしまうところに戦後民主主義としての一面を覗かせるものである。
そして、歴史を論ずるに当たって、過去を現在の感覚で判断するこれは禁じ手である。


以下 その2へ

<IFRAME style="WIDTH: 120px; HEIGHT: 240px" marginHeight=0 src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&amp;bc1=000000&amp;IS2=1&amp;bg1=FFFFFF&amp;fc1=000000&amp;lc1=0000FF&amp;t=syuunassociat-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;m=amazon&amp;f=ifr&amp;md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&amp;asins=4062163020" frameBorder=0 marginWidth=0 scrolling=no></IFRAME><IFRAME style="WIDTH: 120px; HEIGHT: 240px" marginHeight=0 src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&amp;bc1=000000&amp;IS2=1&amp;bg1=FFFFFF&amp;fc1=000000&amp;lc1=0000FF&amp;t=syuunassociat-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;m=amazon&amp;f=ifr&amp;md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&amp;asins=4892956511" frameBorder=0 marginWidth=0 scrolling=no></IFRAME><IFRAME style="WIDTH: 120px; HEIGHT: 240px" marginHeight=0 src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&amp;bc1=000000&amp;IS2=1&amp;bg1=FFFFFF&amp;fc1=000000&amp;lc1=0000FF&amp;t=syuunassociat-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;m=amazon&amp;f=ifr&amp;md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&amp;asins=4255004854" frameBorder=0 marginWidth=0 scrolling=no></IFRAME><IFRAME style="WIDTH: 120px; HEIGHT: 240px" marginHeight=0 src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&amp;bc1=000000&amp;IS2=1&amp;bg1=FFFFFF&amp;fc1=000000&amp;lc1=0000FF&amp;t=syuunassociat-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;m=amazon&amp;f=ifr&amp;md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&amp;asins=4895001350" frameBorder=0 marginWidth=0 scrolling=no></IFRAME>



陰徳を積む―銀行王・安田善次郎伝を読む


「陰徳を積む」この伝記の著者は北康利で、元富士銀行の行員だった人物である。そうでないと色々妙だなという部分に納得が行かない。
前回、「儲けすぎた男―小説・安田善次郎」という伝記を読んだのだが、その伝記は富山からで出来てから安田銀行を起こすまでで止まっている。
簡単なその後の紹介もあるというものの全体像がつかめないと言うものであった。
一方、この「陰徳を積む」の方はより詳しく書かれていて「安田善次郎」に迫るものである。この様に「安田善治郎」に迫ることが出来ることとして「安田善次郎」は「日記魔」であり「写真好き」であって、毎日日記をつけていたことである。
従って、その面影というものがおぼろげに伝わってくるものがある。
この伝記では「陰徳を積む」と言うことを題としているだけに、「安田善次郎」は見えないところで慈善をして、余り世間には知らしめなかったようなことを主題にもしている。
別の言い方をすれば、「しみったれ」、「けちん坊」、「吝嗇」ではなく、それなりに施しを各方面に多大にしていると示したかったようだ。
社会に対しては、潰れた銀行を救済する傍(かたわ)らその担保となっていた船舶、鉱山、紡績事業などを安田財閥傘下に組み入れ、膨大な資金を背景に一大産業にする。
そう言うことが、社会貢献であるというように筆者北氏は書いている。今で言えば、M&Aとか、投資ファンドがやっているようなことである。
しかし、それは安田銀行の業務の一環であって結果として富を生み社会貢献や慈善事業とは違うものであろう。
確かにその点において「安田善次郎」は先見の明が良く効いて、間違いなく救済する事業を見極めるなど戦略眼を持つ希有な人物であることは間違いない。
だからといって「陰徳を積む」と言うわけではない。
又、「泣いて馬謖を斬る」という章で婿の後継者・善三郎を更迭する。要は余り儲かりそうもない製造業からの撤退という結果を生む。やはり「安田善次郎」の戦略眼は特段に優れていた。
さて、「安田善次郎」はケチではなかったと著者は力説するのだが、本当にそうだろうか。ここで明治8-9年頃の安田商店の給与(給料)が示されている。
「この頃の安田商店の給料は忠兵衛で10円、課長クラスは5円であった。当時、巡査の初任給が4円だったというが、今より巡査の社会的地位がはるかに高かったことを考えると、安田商店の給与は平均的なものだったのであるまいか。」
これは、忠兵衛という番頭・支配人クラスで10円、手代・課長クラスで5円、丁稚・行員クラスは?という話である。
そして、巡査の給料を引き合いに出して比べているというのはあまりにもひどいのではないか。元々当時の巡査というのは士族を中心に募集されたから「社会的地位がはるかに高かった」と言うことは確かだが、給料という部分ではかなり薄給であった。
ここで司馬遼太郎「坂の上の雲」第1巻に主人公の秋山好古に関することで給与についして書かれている。
時期も明治8年だから符合するので記しておくと、(秋山好古検定教員4か月)
小学校の助教(5等助教・代用教員)になると月給7円。(河内四十五番小学校)16歳
正教員になると月給9円。「野田小学校」
この「野田小学校」の平岩又五郎こと「紅鳥先生」月給17円。
明治9-10年秋山好古師範学校卒業、三等訓導・月給30円18歳。
又、正岡子規が「明治25年、26歳で日本新聞社ら入社した時の給料が15円であった。」とも書かれているものの、これはかなりの薄給だったはずである。


こんなことから見ても、「安田商店」の給料の安さというのは半端ではない。当時の水準から言えばこの2-3倍の給料をもらっても不思議はないと言うものだろう。
著者は「安田善次郎と言うと『ケチ』という評判がついて回る。」
「実際、晩年には寄付を断ることが多く、結局そのことがもとで朝日平吾に刺殺されるという悲惨な最期を遂げたために、『ケチ』というイメージは鮮烈な形で定着してしまった。」と書かれている。
続けて、著者は「壮年期までの彼は、これまで見てきたように一般の金持ちが普通にするように寄付を頻繁に行っている。」と弁解している。
例えば「明治13年12月、東京で火事があった折も、180円の見舞金と酒十樽を被災者に贈った。」その後を加えて380円というのだが、逐次投入型の寄付と言って良いだろう。
そして、そんな寄付というのは実は当時の「金持ち、大尽」と言う人達は頻繁に行っていたことは確かなことである。
時は、小さな政府の時代で税金を払っていない人達など数多かっただけでなく、社会保障などはなかった時代。そう言う補完的な事柄というものはいわゆる素封家という人達によってなされていた。
だから、「安田善次郎」の寄付というのは今の水準で言えば高いかも知れないが、当時としては当たり前のものだったのかも知れない。
そして、寄付をしたからと言って何かに名前が出ると言うこともなかったと言うより、成功者は地域に還元するというのが常識だった時代でもある。
又、当時の伊藤博文のチップが100円だったことを考えると、180円というのもなにか妙な気がする。
そして、著者が富士銀行に入ったときには、安田銀行の面影を消すようなと書かれているが、その吝嗇は十分に受け継がれていると思われた。
なぜなら、その昔富士銀行というのは、大口預金者でも富士の絵が描かれていたカレンダーを1枚しか渡さなかった。
思えば昔爺様が「富士銀行のカレンダー」なんだと妙に喜んでいたのか、自慢していたのか目立つところに常に貼っていたのを思い出すものである。

<IFRAME style="WIDTH: 120px; HEIGHT: 240px" marginHeight=0 src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&amp;bc1=000000&amp;IS2=1&amp;bg1=FFFFFF&amp;fc1=000000&amp;lc1=0000FF&amp;t=syuunassociat-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;m=amazon&amp;f=ifr&amp;md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&amp;asins=4163293507" frameBorder=0 marginWidth=0 scrolling=no></IFRAME><IFRAME style="WIDTH: 120px; HEIGHT: 240px" marginHeight=0 src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&amp;bc1=000000&amp;IS2=1&amp;bg1=FFFFFF&amp;fc1=000000&amp;lc1=0000FF&amp;t=syuunassociat-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;m=amazon&amp;f=ifr&amp;md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&amp;asins=4893086855" frameBorder=0 marginWidth=0 scrolling=no></IFRAME><IFRAME style="WIDTH: 120px; HEIGHT: 240px" marginHeight=0 src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&amp;bc1=000000&amp;IS2=1&amp;bg1=FFFFFF&amp;fc1=000000&amp;lc1=0000FF&amp;t=syuunassociat-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;m=amazon&amp;f=ifr&amp;md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&amp;asins=4103260114" frameBorder=0 marginWidth=0 scrolling=no></IFRAME><IFRAME style="WIDTH: 120px; HEIGHT: 240px" marginHeight=0 src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&amp;bc1=000000&amp;IS2=1&amp;bg1=FFFFFF&amp;fc1=000000&amp;lc1=0000FF&amp;t=syuunassociat-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;m=amazon&amp;f=ifr&amp;md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&amp;asins=4623058530" frameBorder=0 marginWidth=0 scrolling=no></IFRAME>

CyberLink MediaEspresso 6を使って見る その4


「MediaEspressoを使用してYouTubeに簡単にアップロードすることが出来るもの。」と前回述べておいた。
従って、より高度なことをするには別のソフトによる前処理が必要である。
別の言い方をすれば、高度な画像処理を必要とする場合には、別のソフトを使い当然YouTubeなどもそちらからアップロードするのでMediaEspressoは必要なくなる。
その上、MediaEspresso自体も「インテル ハイパースレッディング・テクノロジーを利用」と述べているとおり、最新のPCであればあるほど快適に動く。
兎に角、AVCHDなどの動画を取り扱うと言うことになったら、例えデジカメの映像でも古いPCでは苦戦と忍耐を強いられる。

この事実MediaEspressoを使っているPCも「Intel Core2Quad Q6600・ RADEON HD4670 」( Windows 7Home Premium32bit(エクスペリエンスインデックス5.9)(7.1/7.1/6.8/6.8/5.9))と言う組み合わせなので、特に目立ったストレスは感じていない。
しかしそれは、より大きなファイルの編集や変換をしていないということに過ぎない。


又、「AMD 製グラフィックカード」の場合、Avivo Video Converterをバージョンアップすると、メモリー使用率が増えるものの変換時間はかえって延びる結果となった。

CyberLink MediaEspresso 6製品概要

CyberLink MediaEspresso 6体験版ソフト



PowerDirector 8 Ultra



漁船衝突・盗人に追銭・交渉手段を失った菅政権


処分保留のまま釈放された中国人船長は、英雄気取りで福建省の福州空港に到着。
なんと手回しが良くて早すぎる釈放に国民は唖然としたことだろう。
しかし、打って出るのは中国外務省の「感謝」の言葉ではなく、「中国外務省は25日未明、尖閣諸島沖での中国漁船と海上保安庁巡視船の衝突事件について、日本側に謝罪と賠償を求める声明を発表した。(日経新聞Web)」。それで、この釈放によって中国側の制裁措置が解除されたかどうかと言うのは報道されていない。
逆に、今度は「日本側に謝罪と賠償を求め」制裁措置は長引くという観測もあるし、多分そうであろう。
それは、中国政府としては新たな日本に対する「懲罰」という武器を手にしたことで、共産党としては安泰を意味するからである。しかも、その懲罰は長引かせれば長引かせるほど都合がよいと来ているから始末が悪い。
そして、中国政府としては制裁口実として始めたことは中止もしないし、中止されたものは復活は中々ままならないと言うより時期が過ぎしまう。
ここで日本と中国との損得勘定を見れみれば、日本は大損の上に追い銭を課せられるのに対して中国は取ったもの勝ちと大笑いであろう。
それにしても今回の問題では驚くべきほど早く、船員も船体も返還して妙だなと思っていた。その上、本来日本の正当性などを国際アピールするための「ビデオ」も非公開になっていたのは妙だと思っていたら、国土交通省の三役(民主党)が非公開としたという。


菅総理が国連で演説をしていた映像を見ればほとんど空席ばかりで誰も聞いていない。
そして、菅総理は何を期待して、何を目的として国連で演説をしたのか疑問に思ってしまうのではないか。
単に日本の総理として国連で演説をしたいだけだったのかとしか思えない。
菅総理も、前原外務相も日本に帰ってきてどういう状況になっているのかを考えているのだろうか。
それにしても、ノーテンキだったのか「フジタ」社員4人。
開いた口がふさがらないとはこのことだろう。



漁船衝突:中国人船長を釈放・隠れた指揮権発動か?

今日「那覇地検は24日、公務執行妨害容疑で逮捕・送検し、拘置していた中国人船長を、処分保留のまま釈放すると発表した。」
これはどういうことなのか!
中国外務省の姜瑜報道官は「船長に対する日本のいかなる司法手続きも不法で無効」と述べていることから日本の「処分保留のまま釈放」とはこの認識を追認するということになる。
そして、この発表を見て、中国政府は外交上の成功として大々的に発表して中国共産党の勝利と喧伝するに違いない。
一方、日本は法治国家の筈なのに弱腰で中国に負けた、超法規的措置を行ったとアジアのみならず日本国内でもそう思われるに違いない。
そうだとすれば、菅政権にとっては「菅談話」に続く外交上の失敗ということになる。
確かに、法務大臣は「指揮権を行使した事実はない」と否定しているものの言いぐさが妙である。
「法と証拠に基づき適切に判断したものと承知している」
そんなことを信じる国民など今時皆無である筈だ。
そして「処分保留のまま釈放」という結果はどう考えても那覇地検単独で下せるはずがない。
その理由として、「我が国国民への影響や、今後の日中関係を考慮した」という政治判断は最高検察庁などの上級省庁の指示を思わせるものがある。
そして、その上級庁の判断は間違いなく官房長官あたりからの直接指示だろう。
又、「追跡を免れるためにとっさに取った行動で、計画性は認められない」という訳の分からない説明も領海侵犯という事実から考えても妙な判断である。
その判断なら、領海侵犯をして巡視船の停船命令を無視して船をぶつけて逃走しようとしても罪に問われないことになる。
これでは、尖閣諸島は守れないと国民のみんなは思い、菅政権の短命を予測することになるかも知れない。
あのルーピー鳩山もダメだったが、菅もやはりダメということが証明されたようなものだ。

前高、高高定期戦」群馬県立高崎高校の現在の校舎、校庭は如何に


2010/09/11、四十数年ぶりに群馬県立高崎高校の正門を通った。
高崎高校は、昔と同じ場所に一見大学のキャンパスではないかと思わせる広大な敷地と、年月を経た木々がその歴史を物語る。
それは、旧制高崎中学という今で言えば短大に相当する位置づけが感じられるのである。
一方、我が母校前橋高校は通った文京町の校舎は、前出のように生涯教育センターという意味不明な箱物に生まれ変わり、校舎は赤城の麓の方に移転したものの今や住宅街の中にある。
しかし、その場所の歴史の薄さと元の敷地から見れば広くなったとは言え、高崎高校の様に車で乗り入れられるほどのものではない。
未だに、校舎、敷地に至っては新制高校の枠から一歩も出でいないと言うのが前橋高校の雰囲気である。Dsc00557
さて、校門を見てみると「高前定期戦」という馬鹿デカイ品のない掲示がある。
昔の記憶によれば、前橋高校では「高前定期戦」などと言ったためしがなかった。
言うとすれば「前高、高高定期戦」、「定期戦」、「高高定期戦」である。
この定期戦は昔2年に一回だった記憶がある。
だからその「前高、高高定期戦」では、高校1年の時に高高に行ったのである。そして3年の時は、高高が前高に来た。
そのバスから見た高高生徒というのは、白い二本線の帽子を被り、足はゴム草履。
高崎駅まで歩いて行く生徒と言うのは、高崎近郊の山の中だからそんなものかと思ったものなのである。Dsc00551
今の校舎が出来る10年以上前は、木造の汚い校舎であちこち穴だらけ、ゴミだらけ。
要するに蹴り破ったという壁があちこちにあった。
職員室の前あたりを通ったら、何学年のだか忘れたが成績順の席次が全て張り出されていた。
ろくに授業など行わず、試験前になったら何十ページの先のページを指定して、「今度の試験はここまでだから自分で勉強しておくように」という出鱈目な教師ばかりだった前高とは大違いだった。
それで、試験結果を張り出したら「冗談じゃネーよ」とつるし上げを食うのが教師になる。いずれにせよ、前高と高高とは基本的に校風が違うというのは不思議なものなのである。そして、高高の校章は「亀の子」マークなのだが、昔はそれに二本線が入っていた校旗のこともあった。それは、帽子と同じスタイルのもので今では帽子も被らないから見ることはないだろう。Dsc00561
その二本線というのは、旧制前橋中学の第2分校を示すもので、「1897年3月 群馬、甘楽、碓井、利根、新田、多野の6分校が置かれる。」とある。
それが1900年から1912年にかけて
群馬‥‥高崎高校
甘楽‥‥富岡高校
新田‥‥太田高校・分離1900年。


碓井‥‥安中高校
多野‥‥藤岡高校・分離1901年
利根‥‥沼田高校・分離1912年  と言うわけである。
それで昔の話を聞くと、前中で落第すると高高へ転校、それでもダメだと太田へ転校。
いよいよダメだと沼田(分校)に転校して卒業したという話を聞くのであった。Dsc00555 


さて、その「前高、高高定期戦」。それは昭和42年の秋である。
TBSラジオ深夜放送の番組パックインミュージック。その木曜日深夜(1967,08-1982,07-野沢那智/白石冬美)ナチチャココンビの始まりの冒頭を飾ったのが「前高、高高定期戦」物語である。
ちなみに、文化放送の深夜番組「レモンちゃん」ことあの「落合恵子」、今ではTV朝日系の朝の番組で「砂かけ婆(すなかけばばあ)」のコスプレで有名だが、それは昭和45年以降である。Dsc00565
そこに投稿したのが当時1年で同級生だった小田君。
高高の校舎は観音山の麓にあって、当時はまだ整備されていない何やら鬱蒼とした雰囲気があった。前橋高校の正門の道路は当時としては珍しく完全舗装であったのに、高高の前、周辺は未舗装だったから余計に「山」を感じさせたのである。
それで高高の生徒を山猿と言ったかどうかは覚えていないが、相当カチンと来たはずなのである。
そして、それに対して高高の生徒がうまく反論出来ない。小田君の文章は褒め殺しも含めそれほど優れたものだった。
その深夜放送での「前高、高高定期戦」のヒートアップは激しく、高高では「小田を探せ」というなぶり殺しも辞さない雰囲気であったのは、同じクラスだからよく知っているのである。
そして、本来3学年で行う騎馬戦は、1学年だけで中止となった。
それでも多少の乱闘騒ぎで、腹を蹴られたとうちのウマの先頭(今は、某大学の教授)は言っていた。
当時の高高というのは、前高に比べ相当にバンカラが強く、紳士的ではなかった人物が少なからずいたと言うのは事実だろう。Dsc00559


その「前高、高高定期戦」では、そのアウェーで負け、前高が多少負け越したというのは良く覚えている。
その後のホームで勝ったものの、対戦成績今でも延々と前高が負け越している。
いずれにせよ、北大(北海道大学・当時国立一期)へ進学したはずの小田君の消息は知れない。
卒業名簿にも確かな消息は記されていない。
過去は遠くなりにけりなのである。



儲けすぎた男―小説・安田善次郎を読む・前橋の歴史


「安田善次郎(1838~1921)実業家・銀行家。日本橋の両替店「安田屋」から金融業を成長させ、一代で安田財閥を築いた安田善次郎。金融・経済界の発展だけでなく、東京大学安田講堂の寄贈など社会事業にも貢献した銀行王の知られざる生涯を、厖大な日記・手控を駆使し克明に描き出す。」(安田善次郎―果報は練って待て・(「BOOK」データベースより)

儲けすぎた男―小説・安田善次郎

安田善次郎の伝記を探してみると、最新のものまで数々ある。
それは、上述のデーターベースに書かれているとおり「厖大な日記・手控」と言うだけでなく、 安田善次郎本人の書作、「富之礎」、「克己実話」、「意志の力」、「富の活動」やその他膨大な記録によるところが多いようだ。
この「儲けすぎた男―小説・安田善次郎」は、近刊と言うこともあって以前に出された安田善次郎の伝記の一部を作品としている。
それは、「東京大学安田講堂を寄付した人物」と冒頭に上げて、安田講堂の由来を説明して読者の興味を引くものである。
しかし、書かれているのは富山の田舎からで出来て、露天商の銭両替屋から安田銀行を作るまでである。大方明治13年(1880年)頃までの話。
江戸から東京に時代が移るときの大変動期、この安田善次郎の様な人物は日本中に沢山いた。実際はこの安田銀行が出来てからの後がその他の「旭大尽(あさひだいじん)」と言われた人達との違いである。
この「旭(朝日)大尽」という言葉は、小生も知らなかった。この言葉が出たのはもう随分前に、ある税理士が揶揄して言った事からである。
予測がつく事は「朝日将軍(旭将軍)」・木曾義仲である。
寿永3年(1184年)1月15日、征東大将軍宣下とあるから、正真正銘の将軍になったものの敗死(討ち死に)。それで一夜将軍というような意味合いをものものである。
即ち、「旭(朝日)大尽」とは一夜成金という意味であろう。
その一夜成金たる朝日大尽というのがこの安田善次郎の明治13年頃の話である。
少し話が逸れるが、明治14年、1881年という年。
この年は小生が住む群馬県前橋市にとっては象徴的な年になっている。
それは、「1881年に正式に群馬県庁が前橋に置かれました」(前橋リビングガイド・前橋市の歴史)とある。
前橋市が県庁所在地になったのは、松平氏の厩橋(前橋)城があったからではない。
確かに最初は前橋に県庁があったが、その後高崎に一時的(臨時)に移されたときがあったのである。
高崎も高崎城の堀が今でも残っているとおり、城郭都市で当時としても前橋に劣ることはない。但し、当時は生糸の生産地として前橋は特に活況を呈していたとは事実である。
そこで、生糸商人の下村善太郎氏(初代市長1892年)が、前橋に県庁所在地を戻す運動をして、中央官庁と掛け合い100,000円を用意すれば県庁を前橋に定めるとされた。
そこで、下村氏は現金10,000円を出資。
あとの90,000円をその時の「旭大尽」に出資を募ったのである。
(現在の2億円くらいか、ちなみに当時の安田銀行の資本金は20万円。但し安田善次郎総資産62万円超)
実は、小生の先祖の其次郎翁がその大役を引き受け、自らも5,000円を出資し募金を成し遂げたのである。ちなみに其次郎翁は公園整備など当時の前橋市の貧弱な財政事情を鑑み、不動産を買っては寄付を繰り返したもののその名は残っていない。
その後の旭大尽は、戦後のGHQによる財産税(税率90%)でほとんど破綻(物納により)し、その寄付を拒否した「不動産金融の高利貸し」が現在まで残ると言うのが実態なのである。
従い、小生の先祖のことを言われてsyuunの家は明治の「旭大尽」だったと馬鹿にされたのがあの税理士の言葉だったのである。
群馬には山崎種二という元の山種証券株式会社を起こした人物がいる。
米相場の相場師から証券会社を起こしたものの、1893年(明治26年)生まれで後世代になる。
それにしても、この安田善次郎の金儲け、金の儲けすぎは尋常ではない。
戦前の四大財閥の内、小説に出で来る三井財閥は江戸時代からの幕府御用の本両替商。安田善次郎は、単なる銭両替屋にすぎなかったし、三菱の岩崎弥太郎は政商として新政府に取り入っていたはずである。
この岩崎弥太郎が巨万の富を得るのもこの安田善次郎が大儲けした「各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げ、藩札を大量に買占め莫大な利益を得る。(ウィキペディア)」のも同じ。
但し、大久保利通の死後、明治14年(1881年)には政変で大隈重信が失脚し、福沢諭吉の慶応閥と組んだ岩崎弥太郎は政府から排除される事は書かれていない。


元々金融という直接金に係わる事というものは、何時も妙な事が多いと共に儲けすぎという事が多い。
あの楽天でさえ、楽天市場という架空商店街よりもクレジットカードや銀行、証券などの金融に力を入れていると言うことから見ても「胡散臭い」という感じは否めない。
そして、安田善次郎は、露天の銭両替屋から店を持っても両替の行商するワケだが、こんなもので大金持ち(旭大尽)になれるはず無いのが常である。
不動産屋の話で、一見して儲かりそうなものだが、真面目に誠実にやって一生かかって自宅の一軒が持てれば大成功した口なのだと言う。
明治維新や戦後の混乱期でもない現代では、どこの世界でも一攫千金や人を泣かせないで大金持ちになるなどいうのは皆無に近いと思われる。
だから、この安田善次郎も普通なら単なる銭両替屋、そして銭両替屋が成立しなくなった以後は乾物、鰹節屋で終わってしまうところ。
それが、幕府の金貨改鋳に絡む「古金、古銀の回収」による大儲け。
「太政官札の買い占め」、「公債、秩禄公債の買い占め」と普通の人なら一生に1回ありつくかどうかの大金を三度も経験していることである。


種々の伝記や記録を読むと、人というのは一生に一度はその分に相応(ふさわ)しい大金を手にする。
それが、会社員などのの退職金であることも多いだろうし、そうでないこともある。
但し、人生のどの時期でその大金を手にするのか、それによって人の人生というものは変わってくる事がある実態を実感させられる。
しかし、何時の代の常識でも血気盛んなときに大金を手にするときなどは皆無に近い。
大方、もう何もすることがなくなった引退の時期の手にする退職金。
大金持ちになるには年が取りすぎてた時期。そして、それで事を起こして成功したと言う話はほとんど聞かないのが実態でもある。
それにしては、安田善次郎の大金を手にした時期というのは「金持ちになれ」と天が差配しているように思えてくる。
第一銀行への出資を避けて破産を回避したのも、安田善次郎の先見の明ではあるけれども、
「天は自らを助ける者を助く」とはよく言ったものである。

<IFRAME style="WIDTH: 120px; HEIGHT: 240px" marginHeight=0 src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&amp;bc1=000000&amp;IS2=1&amp;bg1=FFFFFF&amp;fc1=000000&amp;lc1=0000FF&amp;t=syuunassociat-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;m=amazon&amp;f=ifr&amp;md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&amp;asins=4163293507" frameBorder=0 marginWidth=0 scrolling=no></IFRAME><IFRAME style="WIDTH: 120px; HEIGHT: 240px" marginHeight=0 src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&amp;bc1=000000&amp;IS2=1&amp;bg1=FFFFFF&amp;fc1=000000&amp;lc1=0000FF&amp;t=syuunassociat-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;m=amazon&amp;f=ifr&amp;md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&amp;asins=4893086855" frameBorder=0 marginWidth=0 scrolling=no></IFRAME><IFRAME style="WIDTH: 120px; HEIGHT: 240px" marginHeight=0 src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&amp;bc1=000000&amp;IS2=1&amp;bg1=FFFFFF&amp;fc1=000000&amp;lc1=0000FF&amp;t=syuunassociat-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;m=amazon&amp;f=ifr&amp;md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&amp;asins=4103260114" frameBorder=0 marginWidth=0 scrolling=no></IFRAME><IFRAME style="WIDTH: 120px; HEIGHT: 240px" marginHeight=0 src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&amp;bc1=000000&amp;IS2=1&amp;bg1=FFFFFF&amp;fc1=000000&amp;lc1=0000FF&amp;t=syuunassociat-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;m=amazon&amp;f=ifr&amp;md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&amp;asins=4623058530" frameBorder=0 marginWidth=0 scrolling=no></IFRAME>

CyberLink MediaEspresso 6を使って見る その2    M2TSからH.264/MPEG 4 AVC


CyberLink MediaEspresso 6は、最近のハイビジョン映像AVCHDなどをH.264/MPEG 4 AVCへの動画変換を高速化する。
機能は、動画変換とその圧縮した動画などを転送したりする単純ソフトである。
その動画自体を編集するとなると、PowerDirector 8などを購入した上でかなり高性能のパソコンが要求される。
実際、PowerDirector 8があれば単機能のMediaEspresso 6は要らないかも知れない部分もあるかも知れない。 PowerDirector 8 Ultra
そして、今回はSONY Cyber-shot DSC-HX5Vで撮影したAVCHDの動画M2TSを携帯電話用の動画に変換してみた。

それは何時ものように動画を取り込み、携帯電話のプルダウンから携帯電話を選ぶのだがなんと日本製の電話がない。
日本なら、SharpかPanasonic、それともカシオ位になるのだがそれもないというのは、不親切である。
兎に角、SONYを選択して、そのままお任せ。
これだと、2分・176Mbの動画が3.6Mb程度、エンコードは約1分。
MP4と言うのに、良く見えない、使えない動画であった。

今度は、H.264/MPEG 4 AVCにするという事でLGを選択して320×240(DivX(MP4))。
TrueTheater? Denoise と TrueTheater? AutoLightを有効にするにチェックを入れる。

これだと6Mbぐらいの容量になって、実際携帯電話に転送しても良い感じになった。
もう少しうまく変換出来ないかと、720×432の大きさで変換してみたら携帯電話では起動しなかった。

結局、携帯電話に転送する場合、320×240位以下がよいようで携帯電話によって試行錯誤しなければならないという面倒な事があった。
その他、VOBからH.264/MPEG 4 AVCへの変換は、元の動画の状態によっては変換出来なかったものがあった。

CyberLink MediaEspresso 6製品概要

サイバーリンク お客様大感謝SALE』開催中!2010年9月22日(水)まで

CyberLink MediaEspresso 6体験版ソフト

PowerDirector8 Ultra 製品概要

CyberLink PowerDirector 8 体験版ソフトをダウンロード

<iframe style="width: 120px; height: 240px;" marginheight="0" src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&amp;bc1=000000&amp;IS2=1&amp;bg1=7BD7F7&amp;fc1=000000&amp;lc1=0000FF&amp;t=syuunassociat-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;m=amazon&amp;f=ifr&amp;md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&amp;asins=B002M4YGCU" marginwidth="0" frameborder="0" scrolling="no"></iframe>
PowerDirector 8 Ultra



ソフトバンクモバイル「見たらくじ・お父さんくじ」のお粗末

ソフトバンクモバイルの携帯電話に「見たらくじ・お父さんくじ」と言うものがある。
「見たらくじ」というのは、ソフトバンクモバイルが配信している無料動画(一部有料)をダウンロードして見ると「くじが引ける」というもの。
この場合、動画は無料だが通信料は掛かる。
同じように「お父さんくじ」の方はネットに繋がせてくじを引くというもので、これによって相当量のパケット代を使わせるもので結局無料ではないという代物。
いずれにせよ、そのくじのポイントを集めて商品と交換するというのが「見たらくじ・お父さんくじ」の共通ポイントというものである。

そこで7月上旬、6月までポイントが貯まったので交換をした。
やり方は、交換と共に「交換履歴」が表示され「ダウンロード」をクリックすると別の画面で交換方法に対する入力をする。
普通はこれで商品が送られてくるのを待つのだが、2ヶ月経っても送られてこない。

そこで「ソフトバンクギフト株式会社」にメールをしてみた。
otokubin@sbg,jp
それで戻ってきたメールがこんなもの。
--------------
お客様
お問合せ頂きありがとうございます。
ソフトバンクギフトカスタマーサービスです。
ご当選になられましたキャンペーンは
「お父さんくじ・見たらくじ」になりますでしょうか
「お父さんくじ・見たらくじ」にてご当選されました
お父さんグッズにつきましては、こちらの窓口では
わかりかねるため、配信元(キャンペーン主催)の
下記窓口まで、ご相談くださいますようお願いいたします。
----------------------------------------------------
◆ソフトバンクモバイル(株)
 お客さまセンター≪受付時間 9:00~20:00≫
 ソフトバンク携帯電話から 157
 一般電話から 0088-21-2000
----------------------------------------------------
誠に恐れ入りますが、
ご容赦いただけます様何卒お願い申し上げます。
 配信先は(service@sbg.jp)

それで、157に電話してみた。
オペレーターと繋がってかなり待たされた後、担当部署が違うので再度電話してくれとのこと。
157-94に電話。こちらは「お父さんくじ・見たらくじ」の担当なのだそうな。
すると分からないので、03-5249-33××へ電話してくれと言う。
03-5249-33××に電話すると、担当ではないので分からないから157-94に電話してくれと言う。
157-94に電話。
又、03-5249-33××してくれと言うから、電話したというとかなり時間を待たされたあげく、再度電話するとのこと。
なんと電話をかけ続けて、40分も掛かった。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
夕方、電話があって「お客様の状況は確認出来ました」というものの、配送は分からないのでソフトバンクギフトカスタマーサービスに「service@sbg.jp」でメールをしてくれと言う。
なんと、これで最初に戻った。

ネット上にあるotokubin@sbg,jpにメールをしたらservice@sbg.jpの名前で帰ってきた。
担当者の名前があるわけでもない。

ソフトバンクから、調べるので「再度電話する」とのことで今日は終わり。

こんなことで、たらい回しのソフトバンクとは驚いたものだ。




交換するために来たメール。
このソフトバンクギフト株式会社
mail:otokubin@sbg.jp

にメールをしても知らないと言うのが始まり。
--------------
ソフトバンクモバイルの共通ポイントサービスをご利用いただきありがとうございます。
共通ポイント交換(お父さんミニストラップ)を受付ました。


※賞品受け取りの流れ
(1)以下のURLより接続すると、交換履歴画面が表示されます。
http://ent.mb.softbank.jp(省略)
(2)交換履歴からお父さんミニストラップのリンクをクリックし、賞品選択画面に進んでください。
(3)賞品選択画面より、お好きな賞品を1点お選びください。
(4)賞品内容詳細を確認し、「お届け先入力画面へ」ボタンをクリックしてください。
(5)ソフトバンクギフトの会員登録をされていない方は「会員登録(無料)へ」ボタンをクリックして会員登録(無料)をお願いします。
既に会員登録されている方は、「ログイン」ボタンをクリックしてください。
(6)ログイン後、お届け先の住所やお名前などの必要事項を入力して、「申し込み内容の確認」ボタンをクリックしてください。
(7)入力いただいたお届け先の住所やお名前などを確認して、「この内容で申し込む」ボタンをクリックしてください。
(8)入力いただいたお届け先に、賞品をお届けします。


※賞品申し込みには有効期限がございます。有効期間は、ポイント交換が受付された月の月初から5ヶ月後の末日までです。
(例)2010年8月にポイント交換申し込みした場合、賞品申し込みは2011年1月末まで。
※共通ポイントサイトの交換履歴画面からも、同様に賞品申し込みが可能です。


※注意事項
1.本賞品の提供はソフトバンクギフト社のサービスを使用しています。
2.「共通ポイント申し込みサイト」はソフトバンク3G携帯電話(iPhone、Xシリーズ等一部機種を除く)からのみアクセスできます。
3.本賞品の申し込みにはソフトバンクギフトの会員登録(無料)が必要となります。
4.賞品のお届け先は日本国内に限ります。
5.賞品受け取りに関する質問は、ソフトバンクギフト社にお問い合わせください。
お問い合わせ先:
ソフトバンクギフト株式会社
mail:otokubin@sbg.jp
メール回答時間:10:00~17:00 (土日祝除く)


●本メール及び共通ポイントに関するお問い合わせは、ソフトバンクモバイルお客さまセンターTEL:157(総合案内)まで



↑このページのトップヘ